それでも永山則夫が好きだ(スピンオフ)

「ねっとわあく死刑廃止」や、無期懲役囚で「とらえなおし」で知られる飯田博久さんや、小松川事件の李珍宇のことを書いたり色々

『沈黙の声』第24号(87年6月25日発行)「死刑との闘いをどのようにすすめるか」(その2)

2017-01-21 16:14:33 | 会報『沈黙の声』(その2)

(その1)から続く


闘いは今、新たな段階にきている。というよりは、闘いの新たな展開が要請されている。

これは、最高裁が東アジア反日武装戦線への2月3日弁論を強行し、最高裁での死刑事件審理再開に踏み込んだこと、更に、死刑を確定された大道寺将司、益永利明両氏の交通権の極端な制限により、死刑囚への早期執行体制をかためようとしていること、以上のことによる。 

東アジア反日武装戦線に対する2・3弁論強行は、新事実審理のための新弁護団結成を前提とする、黒川芳正氏の弁護団解任を「無効」とし、2・3当日新弁護人を選任した大道寺氏には、(解任をみとめて)弁護準備期間を一切認めず即日弁論をやらせる、というものであり、さらには両氏の弁論要旨未提出のまま、3月24日判決が強行されたのである。

最高裁は、憲法で保障された弁護権を自ら踏みにじるこれらの暴挙によって、極刑を含む裁判を、被告人抹殺のための「儀式」として何が何でも権力のスケジュール通り遂行するのだという意志をはっきり表明した。もはや死刑事件裁判は「殺人儀式」というべきであり、それを遂行するいかなる道理性もないことを、まずはっきりさせておかねばなるまい。

昨年秋以降、最高裁における死刑事件審理再開策動との闘いをつうじて形成された、死刑と闘う団結は、最高裁における更なる仲間への死刑確定攻撃と。「反日」戦士をはじめとする確定囚の仲間達に対する、法務省による早期処刑攻撃、この二つの課題に分断されようとしている。これによって闘いを分散・拡散されるのか、或いは、死刑に対する共同の闘いをさらに広く深く闘っていくのかが問われている。「個別」しか見ない運動の狭さ。「個別」への攻撃に受け身的対応しか出来ぬ敗北主義は、必ず戦線の分散・拡散をまねくだろう。

それは昨年来の闘いの中で、一貫して問われていることである。何度もくり返すが、昨年の11・7弁論阻止にはじまる対最高裁の闘いの高揚は、「反日」裁判への早期弁論・判決攻撃を、死刑事件裁判総体の動向を決するものとして闘うことによって得られたのである。

今年「2・3」直前にあえて弁護団解任を行なった反日獄中戦士の闘いも、反日闘争の復権とともに、全ての仲間への死刑攻撃との闘いを念頭において闘われたのだった。

獄外での「2・3阻止」が真にそれを受けとめて闘われたのかどうかが、総括されねばならないのだ。そしてこのことは、法務省に対する、更に困難な闘いのなかで、必ず教訓として生かされねばならないであろう。

〝東アジア反日武装戦線への死刑重刑攻撃粉砕!対最高裁行動〟は、〝死刑廃止!対最高裁行動〟として継承されねばならない。他方、〝東アジア反日武装戦線への早期処刑攻撃粉砕!対法務省行動〟が全ての死刑囚への執行停止を視野に容れて、とりくまれねばならない。それらが、死刑に反対する巾広い団結によって担われるならば、「個別」への攻撃そのものも阻止されていくてあろう。

国会に対する法案提出は、追及する時期に来ているのかも知れない。

制度改変の闘いを本格的にやるには、生活・生産領域と結びついた大衆運動が必要であり、従来の市民運動レベルのみでなく、死刑に反対できる全ゆる市民諸団体、労組に死刑廃止の訴えを浸透させていかねばならないだろう。法案提出は、例え制限付の死刑廃止であれ、それは廃止への具体的な着手の第一歩にほかならない。その意味で。大衆の批判に耐えうる死刑廃止の内実が問われる。「犯罪」のとらえ返し、被害者の問題、等についてあいまいな、歯にモノはさまった様な議論は許されないだろう。それらの全ての基礎には、やはり、死刑囚仲間との、裁判を軸とする共闘がなくてはならないだろう。

 (その3)へ続く

 

 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。