「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

宮本桂三君・吉田義信君

2006-10-04 10:01:46 | Weblog
 一度、熊本県出身者名簿が作られた。見ると同じ鏡村の宮本桂三君の名があったので、暇を作って早速、尋ねて行ってみた。宮本君は私たちより古いらしくアタップ葺きの高い宿舎にいた。
 非常に喜んでパンをご馳走してくれた。ここは午後になるとパンの値段が半分くらい安くなるそうで、夕方はまだ安くなるとの事。それで夕方近くになってから、境界の金網越しに取引するのだそうだ。
 宮本君は
 「食糧には非常に困って、靴の皮を煮て食ってみたが硬くて食えなかった。豚の皮だから煮たら食えるだろうとの発想だったが、とにかく食えそうなものは何でも手当たり次第食ってみたよ」 約30分位話をして再会を約して帰った。
 いつか幕舎で留守番をしていたら、海軍の作業服の人が私を訪ねてきた。
 「吉田です。」と言うからよく見たら教法寺の上の吉田義信君だった。ここに糧秣受領のことで来たと言った。今、セレター軍港にいるとの事。10分間くらい立ち話をして帰って行った。

幕舎留守番

2006-10-04 09:37:14 | Weblog
 ここには約3週間位居て(この時のはぎっくり腰だったか?)又、リババレーの作業隊に戻り、第一幕舎に入れられた。ここは宮原中隊長が病気で内地帰還になった後を引き継がれた野村 明中尉の幕舎だった。
 「斉藤、よいところに来た。お前作業に出なくてよいから、幕舎の留守番をしてくれ」と言われて留守番役をさせられた。
 全員作業に出て幕舎を留守にすると、泥棒が入るのだそうだ。私達一般の者は何も盗まれるような品物は持ってはいなかったが、それでも帰還用に大切にしまっている軍服を盗られでもしたら、それこそ一大事である。兵隊の中には英兵や支那人から貰った物やら、盗品交換で得た物などを溜め込んだのもいたからそれが狙われたのかもしれない。