「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

航海

2006-10-21 22:32:59 | Weblog
 その日と次の日は携帯食糧だったようだ。
 3日目の朝、「飯上げ」がかかったが、誰が上げに行くかで各船室、[もう軍隊はなくなったのだから]ということで、チョッとごたごたがあったが、結局
 「済まないが若い者が行ってくれよ」と言うことになって、若い者が受け取りに行ってくれた。
 飯は米は少しで、後は小麦を精白した赤黒いものでポロポロしていた。
 「こんなもの食えるか」と自分の携帯食糧で済ます者もいたが、私はありがたく頂いた。両方とも十分精白してなくて、かめばブツブツしていた。汁は粉末味噌をただお湯で溶かしたようなものであったが、私は3度3度残さず食べた。
 4,5日してから、「マンデー場が出来たから、希望者は使うように」という通達があったので私も行ってみた。甲板にシートが張ってあったが、浴びてみたら早速、喉が詰まった。扁桃腺が腫れて声が出なくなってしまった。シンガポールとは気温がやはり相当違うらしい。
 救護室に行くと衛生兵らしいのが
 「どうした?」と聞くが声が出ないので口を開けて、指で指したら
 「どれ、どれ、フーン」と言って赤黒いドロドロしたルゴールのついた綿棒を喉の奥まで突っ込んで塗ってくれた。よくしたもので翌日は良くなった。
 やがて、船は激しく揺れ始めた。台湾海峡だろうと言う。しかし、それから先には一向に進まず、同じような所ばかり走っているような気がした。みんな
 「どうした?」
 「船員のストライキだそうだ」 「何イ、ストライキだって、俺達は命懸けで戦ってきたのに…」憤慨したが船の速度は落ちていくばかり。
 「今、船員と交渉した。とにかく船を走らせねばどうにもならない。各自、煙草を3本づつ出してくれないか」と連絡が輸送官からあった。
 「馬鹿にしている。何がストライキだ」とブツブツ言いながら出し合った。するとやがて船は全速力で走り出した。 現金なものだ。
 又、部屋の狭いところは船倉に移動してもよいとの通達があり、グループで移動した班もあった。私はどんなところかと見に行ったら、1番下のバラストの細かい砂の上で、天井にはシートが張ってあった。
 ある時、スコールが来て、シートの窪んだ所に溜まり、それが片寄って兵隊の上にザーッと落ちた。大慌てで避難する騒ぎがあったが床は砂だからチョッと湿った程度だった。