「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

ジュロンにて

2006-10-18 10:53:42 | Weblog
 ここは小高い丘の上にあって木造であった。前の人達が苦労をして作り、残してくれたものだそうだ。リババレーの幕舎よりずーっと良かった
 その翌日から又作業開始。作業所別の人員割り当てが発表されると、みんなが
 「又作業か」と一斉に言った。
 「いや、今日からのは軽作業だから」という説明に、それでも仕方がない。
 「処置ねーなアー」と不承不承、ぶつぶつ言いながら割り当てられた人数は出かけて行った。私も2回位作業に行ったように思うがたいてい留守番役をやった。
 ここには土門に幅70cm、厚さ3cm、長さ2m位の荒削りの木で作った食事台があった。荒削りのため、ささくれ立っていて、食器を置くには不潔だったので、私は留守番の間中に拾ってきた小刀みたいなので、片隅から削って平らにしていった。
 大分はかどって、もう少しで終わろうという時、大島兵長が
 「斉藤、これを使えよ」と言って小さな鉋(かんな)を取り出してきた。その鉋は幅5cm、長さ8cm位の本式の細工用の台が湾曲した、いわゆるしゃくり鉋というもので、多分支那人から失敬してきた物らしかった。それを見た渡辺兵長が
 「大島、何故それを早く出さなかったのか、斉藤があんなに苦労をして削っていたのに」と怒って言った。私はそれを使って綺麗に仕上げた。
 この頃だったか、作業の帰り道
 「内地に帰ったら何を1番食べたいか」と言う話が出て、私は
 「おはぎが食いたい」と言ったら、「おはぎって何だ?」
 「ぼたもちだ」と答えておいた。刺身とか鰻とかの希望があった。
 ある日、マンデー場で私は下駄を盗まれてしまった。兵舎監視にいたとき、ラワン材で下駄を1足作ってマンデーには重宝していたが、チョッと目を離した隙にやられてしまった。内地帰還の土産に持って帰るつもりだったのに残念だった。ここには帰還の為、各部隊が入り乱れていたので、元のリババレー作業隊に居た時のようにのんびりしていたのがいけなかった。