「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

ジュロンへ

2006-10-17 18:59:01 | Weblog
 8月20日頃だったか、内地帰還準備のため、ジュロンキャンプに移動の命令が出た。(その少し前、空兵舎監視から帰っていた)《来るものが来た》の感じで、荷物の整理に取りかかった。しかし、何といってもさほど準備することもなかった。
 隣の幕舎の入り口にバナナが1本植わっていた。ここに来て作業に行った時、持ってきたのだそうで、もう2m半くらいになり、花が咲き、20cm近くの青い実が十数本、房になって付いていた。
 「こいつはどうするか?」と協議の結果、
 「バナナの芯のところは、うまいそうだ」との話が出て、結局切り倒されて、中の芯は、野菜のように切って食った。シャキシャキした味だったという。
 帰還の第1歩とされるフランス領ジュロンへの移動が隊員みんなの歓喜の涙をもって迎えられた様子はない。何故だろう?
 多分、今度は日本に帰れるだろうという気持ちが半分と、あんなことを言って他の作業隊に連れて行くのではないかという気持ちが半分であった。他の島の作業隊行きの噂が流れていたことも事実である。
 その当時、内地に関する情報は
 「日本は連合軍によって占領され、婦女子は強姦されてしまった」
 「焼夷弾によって家は焼かれ、帰っても住む家がない」 
 「食料は極度に不足し、1日に何万という人が餓死している」  等などの暗い話ばかりで、餓死者の写真まで出ていた。
 皆、「サテ、帰ってどうするか?」という不安が強くあった。作業にも慣れ、食料も食うだけは十分になって、まあ1日適当に働いていれば生きて行ける事は出来るんだからといった調子で、今まで余りにも不自由で、何から何まで命令と規則で縛られた軍隊生活を過して来たためと、南方ボケが加わって何か気の抜けた頭脳で、娑婆に出て、ましてや敗戦後の混乱しているであろう日本に帰って、どうするか。  早く帰りたい、一刻も早く帰らなければならぬが、帰っても確たる生活の当てがあるのか、こんな思いが胸を去来した。 その前に身上調査が行われ、内地に帰ってからの就職希望を聞かれ、皆、応召時の仕事に復職することを希望した。勿論私も産業組合の会計係を申し出た。
 聞けば私達の後1回で内地帰還は終わりとのことだった。
 幕舎(この幕舎は最初、来た時のは傷んで雨漏りするようになったので、取り替えた2回目のもので、手縫いらしく縫い目の粗い製品だった)をたたんで返納事務が済むと、各自それぞれの荷物をトラックに積んで、ジュロンに向かった。

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