「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

リババレー演芸 2

2006-10-12 19:08:15 | Weblog
 ある日、「内地から最近の流行歌のレコードが着いたそうだ。聴きに行こう」と西村君が誘いに来たので、後ろについて行った。楽屋から聞こえてきたのは、
 「りんごの歌」だった。
 「何だ。あれは、りんごの気持ちはよく分かるなんて、あれでも歌か?日本も変ってきたもんだ。あんな歌が流行するなんて」と憤慨して幕舎に戻ってきたものだった。これも西村君が誘いに来ても見に行かなかった訳の1つでもあった。
 演芸の発表会があってから、作業所から板切れや金物、針金などを拾ってきて、もっと立派な物を作ろうと皆努力していた。拾ってきた板を上手に細工してマンドリンを作った人もいた。低音の線は細い鋼線にどこで手に入れたのか、細い銅線を器用にキッチリ巻きつけて張っていた。弾いた音も相当なもので、人は見かけによらぬ面を持っているものだと感心した。
 「公演目録と日誌」(リババレー演芸史)を見てもどの題目だったか分からないが、バレーのところがあった。白いタイツをはいて舞台で踊っていた。「大きな睾ぶらさげて」と陰で笑い合ったが、聞けば同年兵の松尾(大隈、大牟田出身、死亡)が振り付けしたと言っていた。松尾は芸子置屋の養子ということだったが、実に要領の良い男だった。戦中は本部に勤務して通信機の修理をしていた。終戦後は作業隊に入るまでにはどこにいたか知らなかった。ここで演芸部ができると早速これに入ってバレーとか踊りとかの振り付けをしていた。どこでそんなのを習得したのか、生かじりの要領本位でやっているのではないかとも言われた。