「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

空兵舎監視

2006-10-08 15:18:29 | Weblog
 6月になってから29作業所の隣にある元黒人部隊がいた兵舎の留守番に派遣された。ここは幕舎から歩いて20分位のところで、木造の空兵舎が幾棟か建っていた。それを6名くらいで監視するためだ。
 毎日、巡回して見張るだけの楽な仕事だったが、支那人の子供が金網の破れた所から入って来て、目ぼしい物は何もないので羽目板でも何でも剥がして、その先を破れ目からチョッと出しておいて、抜け出し、担げないのでアスファルトの道をガラガラ引きずって持って行ってしまう。これが小さい5,6歳位の子供がするのだから始末に負えない。
 「コラッ!」と怒鳴ると驚いて放って逃げていくが、小さな木切れなどは
 「よく働くなあー、負けてやれよ」などと言って見て見ぬ振りをしてやったこともある。
 夜になると柵の外を「ワンタンメーン」とふれ声が流れてくる。
 「うまいぞ、食ってみようか」と誰かが言う。しかし言わずと知れたこと、
 「銭がないよ」「いや、俺が奢るよ」さてはチュリチュリ(盗み)やって稼いだなと察しがつくから、奢ってもらったが、まあまあの味だったことを覚えている。その他に「バカヤロウ」(そう聞こえた)というふれ声も同じ支那人の行商から2,3度聞いたが、これにはお目にかかったことはない。
 軍隊が廃止されたので私達は民間人の作業隊となり、作業に行けば英軍から賃金が支払われることになったそうで、聞けばこの監視作業が一番高い賃金だという。あまり労働力も要らない仕事なのにとチョッと変な感じがした。
 ここは仕事といっても別になく、朝、昼、晩の食事の用意とか、後片付けは若い人達がやってしまうので、1日中ごろ寝したりして過ごした。
 しかし、しばらくすると夜はここが忙しくなって来た。作業隊員が支那人と結託して29作業所から物資を盗み出すときの避難所に使われ出した為だ
 ここと29作業所はドブ川を隔てた隣り合わせなので、英兵に見つかった時にはドブ川を潜ってここに逃げて隠れる戦法である。
 いつか夜中に銃声がしたので目が覚めたが、29作業所で英兵が何かを追いかける声があちこちに聞こえたが、やがて止んだ。また何かやったなあと思っていると、濡れ鼠になって作業隊員が部屋に入ってきた。
 「見つかっちまってなあ、今まで水の中に隠れていたのさ」と押し殺した声で言った。聞けば避難用にこちら側の金網も最初から破ってあるのだそうだ。
 「今日の奴、ぶっ放しやがって危ないところだったよ」とぼやいていた。
 こんな事が2、3回あったが最後の時には監視役の者も1人加わっていた。
 「もう、内地に帰る間際になって、そんな危ない事は止めろよ」とみんなで言った。
 ある時、靴の配給があったが、これはインデアンでもはくような17,8文の立派な堅ろうな軍靴で相当重かった。履いて見るとブカブカで靴の中を足が滑って行ったり来たりした。持っていても仕方がないので誰かに頼んで売ってもらったが、その金で何を買って食ったか、多分、ワンタンメンか何かを食ったのだろう。はっきり覚えていない。
 私は非番の時、ここから中隊の幕舎に1人で歩いて帰ることもあった。本当は1人歩きは禁止されていたのだが慣れっこになって誰でもやっていた。

ジュウドウー

2006-10-08 10:35:45 | Weblog
 作業に行くとよく英兵から「ユー、ジュウドウー?」と聞かれた。最初は「ノー、ノー。」と答えていたが、話によれば埠頭で海軍の人が何か英兵に殴られそうになったとき、背負い投げで見事にコンクリート道に叩きつけたそうだ。それで英兵は柔道に恐れをなして聞くのだと分かった。
 それからは
 「イエス、イエス」と答えるようにした。それまでは若い英兵達はボクシングの構えで拳を固めて「カーマン」なんて言っていたのが止んだ。