「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

歌 秋葉しぐれ

2006-10-16 18:27:35 | Weblog
   「秋葉しぐれ」(第5回公演 【秋葉しぐれ】主題歌)
      作詞 栗田定一  作曲 出戸位待

  1、秋葉しぐれの宵空に   咲いた男よ 度胸の花が
     どうせやくざの ああ旅烏
  2、旅から旅の渡り鳥    越えた幾年 やくざの義理で
     行くはいずこよ ああ三度笠
  3、恋も人情も泣き烏    古巣追われて街道筋に
     またも見せるか ああ旅烏

 この歌は歌いやすく、若い隊員がよく歌っていたが、私は1節目の「秋葉しぐれの宵空に」が浮かんでくる。
 リババレー作業隊歌はあまり歌われなかった。理由は曲が何かぴったり来なくて歌いにくかったし、何だか嬉しくて張り切って作業しているような歌詞に、抵抗を感じて《俺達は好き好んで英軍の為にやっているのではないぞ》という思いが誰にもあったからだろう。
 「公演目録と日誌」によれば、22年8月3,4日の第35回公演をもって、正式公演は終了したと書かれている。
 その頃になると、内地帰還の配船計画が発表され、作業隊員も次々と帰還して行くので、作業隊内はひっそりとしてきた。

歌 (さらば南の十字星ほか)

2006-10-15 13:24:29 | Weblog
 次に耳の底に残っているのは
  「さらば南の十字星」(21年6月1日発表)
    (第3回公演「黄門南へ行く」主題歌)
      作詞 橋本常記  作曲 出戸位待
 1、椰子の木かげの思い出は    甘い囁きあの声の夢
   君と眺めた懐かしの星     さらば南の十字星よ
 2、夜の楽しい集まりに      友と歌ったキャンプの歌
   名残尽きない思い出の船    さらば南の十字星よ
 3、海の彼方の故郷で       迎える母の笑顔とともに
   夢で見た見た希望の船で    さらば南の十字星よ
 で、1節後半の「君と眺めた懐かしの星 さらば南の十字星よ」のところは、
 今にも歌えそうにあるが、なかなか節にならない。

   「月のデッキ」
 1、月の埠頭でさよなら言うた   かわいいかの子の泣きぼくろ
   どんな思いで今夜の月に    好きな胡弓を弾いてやら
 2、旅の連れかよ浮き根の鳥よ   今度逢う日は何時のこと
   1人夜更けの甲板に立てば   星も飛ぶかよ彼の空へ
 3、夕べ覚えた港の歌を      書いて送ろかはるばろと
   思い出したら歌っておくれ   リラの花咲くかの丘で
       (原文のままメモ帳より)



   

リババレー作業隊歌 

2006-10-14 22:37:23 | Weblog
 その頃、リババレー作業隊歌というのが発表された。
     リババレー作業隊歌
 1、緑の光若き土      映ゆる希望の黄金雲
   集う7千いざ共に    新生日本へ轟く歩調
   生命高鳴る朝あけだ   我等リババレー作業隊
 2、炒りつく太陽玉の汗   街にオフィスに工場に
   打つぞこの鍬ハンマーに 沸き立つ気魂よ国まで響け
   示す男の子の心意気   我等リババレー作業隊
 3、南の国よ椰子の葉よ   燃える夕日の地平線
   夕餉楽しく語らへば   夢見る故郷あの山川よ
   それに招くか十字星   我等リババレー作業隊
 4、嵐も何ぞうち絶えん   胸にあの日の宣あり
   昨日を捨てて新しい   世紀の象徴先立てて
   国を挙げての総襷    我等リババレー作業隊
 栗田まさみ著「思いでは星の如くに」新泉社発行によればこの歌は、
 「昭和21年5月11日第1回公園のとき発表。
      作詞 宮坂外之  作曲 出戸位待
 私のメモには4番まである。2番の「沸き立つ気魂よ」が「わき立つ気魄よ」
 3番の「南の国よ」が「南の風よ」に、「燃える夕日の」が「燃える夕日の」
 「それに招くか」が「空に招くか」に変わっている。これは私がメモするとき聞き違えたのであろうか?。

リババレー演芸 3

2006-10-13 19:11:06 | Weblog
 将校は作業に出なくとも良いということが国際法「戦時中に於ける捕虜の取扱法」で決められている事が分かってから、将校は作業は免除され、暇つぶしに絵や謡曲をやる者も現れた。
 そのうち絵画の作品展があったので見に行ったが、作品の中に「リババレー作業隊員」という宮本三郎という人の絵があった。汚れて変形した戦闘帽、ヨレヨレの雨外被、半ズボンに膝から下、すねに直接膚に巻いた脚絆、形の崩れて破れた靴、肩からの水筒、雑嚢、髭の中から目だけギョロリと光らせた顔、みんな現実の姿をよくとらえていた。
 また誰か知らぬが「光の幻想」と言う作品があった。これも良かった。2人とも絵の専門家ではないかと思った。
 兵隊間の話では宮本という人は小さな幕舎をアトリエに貰って、当番がついているとのことだったが、当番なんか付けるのはもっての外だと思ったが、あるいは将校だったのかもしれない。(実は宮本三郎氏は有名な日本を代表する画家でした。子供の私が実際見たのは雑誌の挿絵ですが)
 「謡」も流行していたようで、野村隊長の私物箱にも謡曲の本が入っていたのを見かけたことがあった。

リババレー演芸 2

2006-10-12 19:08:15 | Weblog
 ある日、「内地から最近の流行歌のレコードが着いたそうだ。聴きに行こう」と西村君が誘いに来たので、後ろについて行った。楽屋から聞こえてきたのは、
 「りんごの歌」だった。
 「何だ。あれは、りんごの気持ちはよく分かるなんて、あれでも歌か?日本も変ってきたもんだ。あんな歌が流行するなんて」と憤慨して幕舎に戻ってきたものだった。これも西村君が誘いに来ても見に行かなかった訳の1つでもあった。
 演芸の発表会があってから、作業所から板切れや金物、針金などを拾ってきて、もっと立派な物を作ろうと皆努力していた。拾ってきた板を上手に細工してマンドリンを作った人もいた。低音の線は細い鋼線にどこで手に入れたのか、細い銅線を器用にキッチリ巻きつけて張っていた。弾いた音も相当なもので、人は見かけによらぬ面を持っているものだと感心した。
 「公演目録と日誌」(リババレー演芸史)を見てもどの題目だったか分からないが、バレーのところがあった。白いタイツをはいて舞台で踊っていた。「大きな睾ぶらさげて」と陰で笑い合ったが、聞けば同年兵の松尾(大隈、大牟田出身、死亡)が振り付けしたと言っていた。松尾は芸子置屋の養子ということだったが、実に要領の良い男だった。戦中は本部に勤務して通信機の修理をしていた。終戦後は作業隊に入るまでにはどこにいたか知らなかった。ここで演芸部ができると早速これに入ってバレーとか踊りとかの振り付けをしていた。どこでそんなのを習得したのか、生かじりの要領本位でやっているのではないかとも言われた。

リババレー演芸 1

2006-10-11 10:26:15 | Weblog
 栗田まさみ著、リババレー演芸史【思い出は星の如くに】によれば、昭和21年4月25日、演芸部が設置され、5月9日、演芸場が完成し、5月11日、第1回公演が行われたとなっている。
 この中で、作業隊本部付の北島少佐の話として
 「内地帰還の船を待つこの作業隊も、いろいろの都合でここに待機する期間が長引くらしい。ややもすれば、男同士のキャンプなので、殺伐に流れがちである。ついてはこれら作業隊員の無聊(むりょう=退屈)を慰め、苦しい作業の連続の日常に1滴の涼を与えたいと思う」とある。
 この前の、昭和21年3月10日に作業隊の有志による演芸会があり、
 1、 喜劇  あきれた夫婦
 2、 時代劇 国定忠治
 3、 時代劇 血煙り荒神山
 4、 歌と踊りのバラエティ が、上演されて非常に好評であったので、これを集合発展させて総合演劇隊をつくりたいという発想であったらしい。
 演芸場を造るということで、会報が回されたようである。作業に行った先から木や板、トタン、テントの切れ端とか持ち帰って作業隊員の中の大工経験者が奉仕してやったようである。
 絵のうまい人がいて、ヴィーナス像などをトタン板にペンキで本当に上手に書き上げ、舞台の背景など見事なものであった。役者の着物など近くで見るとただペンキを塗りたくったようであったが、舞台で見ると本物のように見えた。  
 私は2回程見に行った。上演日の夕暮れともなれば、敷物を手にぞろぞろと広場に集まって、何もかも忘れて舞台に見入ったものだった。炊事の西村君は毎回熱心に欠かさず見物に行っていた。
 公演のある日は2,3日前に広報があったから、その日は作業に出てもなるべく早く切り上げて急いで帰り、マンデーを済ませ、食事もそこそこに場所取りに出かけた。チョッと遅くなるとずーっと後ろの方で立ち見を余儀なくされた。私はそれが煩わしくて後では見に行かなかった。
 また、舞台の女形を見て監視のインド兵が「女を出せ」と言って幕舎内を捜し回ったこともあったそうだ。

マンデー場の板囲い

2006-10-11 09:06:08 | Weblog
 ここ作業隊のマンデー場の板囲いが壊れるという騒ぎがあった。マンデー場の 下隣りに4階建てのアパートがあって、夜になるとある部屋の窓に男女のキスする影が映るというので、その時刻になると板囲いの上にみんな乗って見ていたが、その時あまり大勢、乗ったものだから壊れてしまったのだそうだ。その物音に驚いてかそれっきり電灯を消して、見せなくなったという。

望郷

2006-10-10 18:30:39 | Weblog
 その頃、何とはなしに内地に帰るときに使うリュックサックを作ることが始まった。私は炊事に居る西村仁作君に布地の入手を頼んでおいたら、1週間程して丁度手頃の広さのものをくれた。それを持ち帰って毎日リュックサック作りに精出した。
 ここの監視役に来る前、西村とマンデー場の下隣にあった木のベンチに腰を下ろして、薄暗くなりかけた夜空の南十字星を眺めながら、西村が、
 「斉藤、俺達本当に内地に帰れるだろうか?」と、ぽつんと言った。
 「ああ、帰れるさ」
 「いつ頃だろうかなあ」
 「いつかは分からんが必ず帰れるさ、もう長くはないと思うけど」
 ここから北の方に「グレート・ワールド(大世界)の劇場があって、そこの光が赤々と照らし、そしてボリュームいっぱいに中国語で
 「君いつ帰る」を甘く悲しくながしていた。2人は
 「そうだなあー」と時間の経つのを忘れて、じーっと腰掛けていた。

アルバイト

2006-10-09 10:27:08 | Weblog
 以前から少数ではあったが、作業の休日、日曜を利用して若い者が3人位組んで、支那人の所にアルバイトに出かける事が公然の秘密になっていた
 最初は飯を腹一杯食わせて貰えることで隠れて行ったらしいが、後では賃金もくれる様になったので数が増えていった。仕事は農家の手伝いが多かったようで、雇う側もよく働くし、賃金も安いので評判がよく、次の日の予約までとって来ている者もいた。
 貰った金は飲食物代、タバコ代、おしゃれの用品代やシャツ類の購入代になっていたようだ。
 髪は作業隊に入ってから、床屋が間尺に合わなかったせいもあって、だんだん伸ばす者が多くなり、後では私達少数を残して全員長髪になった。しかし伸ばしたもののそれにつける油がなくて、誰かは椰子油みたいなのをつけて寝て、夜中に頭が変なので目を覚ましてみたら、蟻が一杯たかっていたという話もあった。
 それでポマードやら、鏡やら、櫛やら、クリームなどおしゃれ用品の必要が出てきて、アルバイトの賃金稼ぎが始まった次第であるが、アルバイト先の支那人の若い娘と楽しく語り合ったことなどを幕舎で話していた。

空兵舎監視

2006-10-08 15:18:29 | Weblog
 6月になってから29作業所の隣にある元黒人部隊がいた兵舎の留守番に派遣された。ここは幕舎から歩いて20分位のところで、木造の空兵舎が幾棟か建っていた。それを6名くらいで監視するためだ。
 毎日、巡回して見張るだけの楽な仕事だったが、支那人の子供が金網の破れた所から入って来て、目ぼしい物は何もないので羽目板でも何でも剥がして、その先を破れ目からチョッと出しておいて、抜け出し、担げないのでアスファルトの道をガラガラ引きずって持って行ってしまう。これが小さい5,6歳位の子供がするのだから始末に負えない。
 「コラッ!」と怒鳴ると驚いて放って逃げていくが、小さな木切れなどは
 「よく働くなあー、負けてやれよ」などと言って見て見ぬ振りをしてやったこともある。
 夜になると柵の外を「ワンタンメーン」とふれ声が流れてくる。
 「うまいぞ、食ってみようか」と誰かが言う。しかし言わずと知れたこと、
 「銭がないよ」「いや、俺が奢るよ」さてはチュリチュリ(盗み)やって稼いだなと察しがつくから、奢ってもらったが、まあまあの味だったことを覚えている。その他に「バカヤロウ」(そう聞こえた)というふれ声も同じ支那人の行商から2,3度聞いたが、これにはお目にかかったことはない。
 軍隊が廃止されたので私達は民間人の作業隊となり、作業に行けば英軍から賃金が支払われることになったそうで、聞けばこの監視作業が一番高い賃金だという。あまり労働力も要らない仕事なのにとチョッと変な感じがした。
 ここは仕事といっても別になく、朝、昼、晩の食事の用意とか、後片付けは若い人達がやってしまうので、1日中ごろ寝したりして過ごした。
 しかし、しばらくすると夜はここが忙しくなって来た。作業隊員が支那人と結託して29作業所から物資を盗み出すときの避難所に使われ出した為だ
 ここと29作業所はドブ川を隔てた隣り合わせなので、英兵に見つかった時にはドブ川を潜ってここに逃げて隠れる戦法である。
 いつか夜中に銃声がしたので目が覚めたが、29作業所で英兵が何かを追いかける声があちこちに聞こえたが、やがて止んだ。また何かやったなあと思っていると、濡れ鼠になって作業隊員が部屋に入ってきた。
 「見つかっちまってなあ、今まで水の中に隠れていたのさ」と押し殺した声で言った。聞けば避難用にこちら側の金網も最初から破ってあるのだそうだ。
 「今日の奴、ぶっ放しやがって危ないところだったよ」とぼやいていた。
 こんな事が2、3回あったが最後の時には監視役の者も1人加わっていた。
 「もう、内地に帰る間際になって、そんな危ない事は止めろよ」とみんなで言った。
 ある時、靴の配給があったが、これはインデアンでもはくような17,8文の立派な堅ろうな軍靴で相当重かった。履いて見るとブカブカで靴の中を足が滑って行ったり来たりした。持っていても仕方がないので誰かに頼んで売ってもらったが、その金で何を買って食ったか、多分、ワンタンメンか何かを食ったのだろう。はっきり覚えていない。
 私は非番の時、ここから中隊の幕舎に1人で歩いて帰ることもあった。本当は1人歩きは禁止されていたのだが慣れっこになって誰でもやっていた。