「私の従軍記」 子供たちへ

平成元年父の誕生日に贈ってくれた本、応召されて帰還するまでの4年間の従軍記を今感謝を込めてブログに載せてみたいと思います

故郷へ その1

2006-10-25 16:02:37 | Weblog
 その翌日9月22日朝、暗いうちに宿舎出発、団兵船を連ねて作ったような橋を渡って南風崎駅に向かう。
 途中、ブリキ缶を隣の者が捨てた。
 「せっかく持ってきたのじゃないか」 「どうも必要じゃないようだから」と言った。
 今度は誰かが布でくるんだ物を放ったので
 「何だ?」と聞くと 「岩塩だ」と言う。「せっかく持ってきたんだからもって行けよ」
 「重くてね。どうも必要なさそうだから」
 作業隊に居た時の日本の情報では、極度に物資不足で食糧、塩などは貴重品だと言うことだったので、作業に出た時なんかで苦労して手に入れたものだろうに、持って行けば家族が喜ぶのにと思った。
 復員列車は長い連結だったので私達はプラットホームからではなく、バラストの所から乗りこんだ。
 鳥栖の駅で4,5人下車
 「元気でやれよ、さよなら。」と窓から手を振る戦友達に、私は列車が見えなくなるまで直立不動 挙手の礼をして見送った。
 それから階段を下り、ガードをくぐって、水俣に帰る同年兵の千々岩 悟君と一緒に鹿児島本線下りの一般列車に乗り込んだ。
 途中見る沿線は戦災の跡をまざまざと残していた。列車の中は満員で私達は通路にリュックサックを下ろして立っていたら、
 「何処から?」
 「シンガポールから」
 「それはそれはご苦労様でした。」とねぎらってくれる人もいた。
 熊本で昼ごろになり、駅弁を売っていた。
 「買ってみようか」と千々岩君に言ったら、横に腰掛けていたおばさんが
 「美味くないですよ。自分の家に帰って、家のを食べなさいよ」と教えてくれた。 「そうですか、そんなものですか」と私はやめた。
 やがて有佐駅に着いた。
 「それでは、元気でな」「君も元気でな」 短い挨拶で私は下車した。
 リュックを背負って改札口を出た。駅前の広場は何故か満員の乗客と比較すると妙にひっそりとしていると感じた。そして、このリュックを背負って我が家まで帰る非常に惨めな敗残の自分の姿を想像して、急にいやになって、誰か運んでくれる者はいないかなあと、そばを通った人に
 「赤帽でもいませんか?」と聞いたら、
 「あの人に頼んだら」と駅前のマル通の店先の床ぎに腰掛けている体格のよさそうな男を教えてくれた。 「これを運んでくれないか?」と頼むと2つ返事で引き受けて「ヨッ、コラショ」と、いとも軽々と背負った。
 私が先に、その40歳過ぎだと思われる男は黙って後からついてきた。
 花岡(地名)の上の両側に家のないところで、野崎(地名)の宮崎末彦さんに出会った。
 「ただいま帰りました」と、挨拶したら
 「おう、斉藤君。帰ったか」と驚いたような顔で言われた。
 この日は天気が晴れていて、周囲が太陽の光に包まれて、黄金色に輝いている光景が脳の奥に甦ってくるのは何故だろうか。