n45-50

ロシア・サハリンと北海道を結ぶ架け橋ネット。
サハリン州には。、ロシア人もウクライナ人も住んでいる混住地域です。

氷の祭典 サハリン便り  Sakh.com

2011-12-31 09:38:40 | 旅行・観光・買い物
ハバロフスクチームアイスクリエイティブGrupは、ユジノサハリンスクで氷の数字の祭りを受賞
ユジノサハリンスクでの勝利広場で、氷の図の祭り総括"アイスファンタジー、2011。" サハリンとハバロフスク5チームの最高の戦いのタイトルのための結果。

受賞者は2つのカテゴリで選択された:"氷のベストソング"と"ベストアイス数字を。"
壮大でスポーツ、観光や青少年政策の地域的機関、氷のトラックのクリエイターとオーディエンスの組み立ての代表者を合計する。彼らは儀式を導くために委託されている - はサンタクロースと雪娘はなかった。

歓迎で、参加者は、青少年政策機関リアデニソフの部門のチーフを尋ねた。
彼女は、出場者の中で見て喜んでいた既に毎年のユジノサハリンスクで建てる氷片の伝統を続ける人々の見慣れた顔です。

この祭りは、行の4番目に、そして三日の発売を停止して悪天候にもかかわらず、参加者は彼の作曲の勝利広場を飾ることができた。

あなたがフェスティバルの受賞者、ゲスト、参加者はクリスマスソングでいっぱいだったと名づけられた前に、サンタクロースと雪娘の輪舞を駆動するなど、いくつかのゲームや競争を持っていた。

スポーツ、観光およびサハリン地域エレナZavyazkinaの青少年政策の代理店賞の副ヘッドによって発表された。
そもそも有能な審査員による"氷のベスト曲"、それは"アイスフィッシング"と題した自分の仕事のためのハバロフスクのチームアイスクリエイティブGrupを支払うことを決定した。

歌"会議"とチーム"アムールクリスタル" - 第二位は、あまりにもハバロフスクを獲得した。
リース会社からトップ3"サハリン島のクマを"クローズ"Silmash。"
"ベストアイスの図"でダニエルマカロフを獲得した、彼の作品は、"サンキ"と呼ばれています。"ドラゴン"のフィギュアとセルゲイGoninは2位を獲得した。3位はセルゲイZagidullinaで"せむしの馬"に行きました。ハバロフスクからすべての3つのメダリスト。

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宇宙に必要なのは… ゴミ清掃車? リュドミラ サーキャン ロシアの声

2011-12-31 09:18:15 | 環境
 国際宇宙飛行年の2011年が去り行こうとしている。
人類は宇宙空間の開発を活発に行ってきたが、これは困った副産物も呼んでしまった。専門家らの間では、地球に近い軌道付近で漂う宇宙ゴミの量が危機的レベルにまで達したことを憂慮する声があげられている。
こうした宇宙ゴミは軌道を回る宇宙機器に危険をもたらす存在になりつつあるだけでなく、人類全体にとっても脅威となっている。こうした宇宙ゴミを出しているのは主にロシア、米国、中国、フランス、日本、インドそして欧州宇宙機関だ。

 観測によると、地球の地表に近い軌道に浮遊する人工物の数は1万6000基を越す。
そのうち3000がまだ機能している、もしくはすでに活動を止めた人工衛星で、その他の1万2000基以上が役目を終えた運搬ロケットやエンジン機器、その破片となっている。
またより小さい、1-10センチメートル以下の細かいゴミの数は20万個とも60万個とも言われ、確定されていない。
1センチメートル以下のゴミになると、専門家らの予測では1000万個を超える。

 軌道が完全なゴミ捨て場と化してはいないのは、地上600キロメートル圏内の宇宙ゴミは下降しながら、ある瞬間に大気圏で発火して燃え尽きてしまうからだ。

だが800キロメートルより上になると、ゴミは数十年も漂いつづけ、消えることはない。
こうした浮遊宇宙ゴミが衝突したために通信ナビゲーション衛星が故障したという例は後をたたない。

 国際宇宙ステーション(ISS)も宇宙ゴミに当たらないように軌道を変えざるを得ない事態に何度も追い込まれている。
宇宙調査研究所の職員ユーリー・ザイツェフ氏も、今年9月にISSが軌道修正を余儀なくされた際、「ミリ単位の破片でも高速で衝突した場合は機器の表面に大きな損傷を与える危険性がある」とその理由を説明している。

 宇宙空間の技術ゴミの清掃はなかなか頭の痛い問題であり、多くの国々で開発が行われている。
例えば日本の宇宙航空研究開発機構(JAXA)は宇宙のお掃除になんと魚を捕る網を使うことを検討している。
網といっても銀メッキ加工のされた金属製のものですくおうというもので、すでに数年にわたって日本の漁業用の網の大手メーカーがその開発に当たっている。
この巨大な網だが、人工衛星を用いて軌道に発射される計画だ。
数キロメートルにわたる網は特製のマジックハンドによって宇宙空間に広げられ、お掃除を終えた後は自動的に人工衛星と切り離される仕組みだ。
こうして収集されたゴミは網と一緒に大気圏の密度の高い層へと突入し、そこですっかり燃焼される。

 それにしても人類社会が今頃になってようやくこの問題に気づき、解決に当たろうとしているのだろうか? 雑誌「宇宙航空学ニュース」のイーゴリ・マリーニン編集長はこれについて次のように語っている。

「この問題には以前から国連も様々な国際宇宙機関も取り組んできた。97年の時点ですでに宇宙活動を行う各国が『自分の出したゴミは自分で片付ける』よう決められている。例えば現在ISSからはゴミは一切出されていない。というのもゴミは特製のコンテナーに収集され、宇宙船「プログレス」に積み込まれているからだ。軌道中にすでに溜まってしまったゴミはどのように片付けられるだろうか? 磁石を用いてゴミ収集を行う案もあったが、磁石がひきつけられるのはスチール製の浮遊物だけで、浮遊ゴミの大半は磁石に反応しないジュラルミン製であるため、この案は却下となった。日本の考えた『網ですくう』方法は、私には全く現実的には思えない。どんな網ですくえるというのか、想像もできない。しかも宇宙空間では全てがいろんな方向へいろんな速度で絶えず動いているのだ。毎秒7キロメートルで動く破片など網が捕らえられるはずもない。」

 ロシアでは宇宙ゴミ収集プログラムに600億ルーブルを超える投資を行うことが決まった。
プログラム実現にはロケット開発を行う「エネルギヤ」社が当たる。
同社は宇宙版「掃除機」の製造プランを開発している。

 今のところ宇宙ゴミ対策のための普遍的な手段はない。
研究者らが、地球への落下ないし、宇宙機器との衝突の危険性は統計上きわめて無に等しいと唱えることだけが救いだ。
しかしながら問題は存在しており、宇宙機器の打ち上げが続く限り、衝突事故の危険性は拡大し続ける。

 ソース ロシアの声 写真 NASA

 宇宙から地球を見たら青かった → 宇宙から地球はゴミで見えなかった
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2012年8月 ロシア フェスティバル 岩見沢市で開催 

2011-12-30 09:00:00 | 人・交流
 日本におけるロシア文化フェスティバルに参加する初めて2012年にサハリンのアーティスト

東京、コンサートホール"オペラシティ"で地方政府に代わって2012年に日本におけるロシア文化フェスティバルのサハリン地域のプログラムで創造的なチームの参加で議定書に署名、文書は札幌Kutovoi、頭部の地域のスポークスマンで知事アンドリューによって調印された。

 フェスティバルロシア文化は、2006年から日本で毎年開催され、国民が、両国間の相互理解を深めるため、国のロシアについての詳細を学べるようにする。
この期間中に、コンサートやパフォーマンス、展示、映画、祭りの間に起こったれる、数百万の日本が参加する。

 翌年、フェスティバルのプログラムは、初めて参加する3つのサハリングループ:ロシアの歌のアンサンブル"民族"、ニヴフ国民アンサンブル"ソウケン"と同社地域の人形劇。

 彼らの公演は、20121年8月上旬、テーマパーク、"北海道グリーンランド"(岩見沢市Ivamidzava)で開催されます。
国際文化協力ミハイルShvydkoiのためのロシア大統領の特使として、サハリンのクリエイティブチームの一部は、地域間レベルでロシアと日本間の協力を強化することは非常に重要である。

 ところで、 、今年のフェスティバルの開場所は19世紀の半ばに日本初のロシア領事館登場した北海道、北部日本の島に函館の街となり、札幌で2006年に、サハリン州の代表を開設しました。

  ソース Sakh.com サハリンマン
САХАЛИНСКИЕ АРТИСТЫ В 2012 Г. ВПЕРВЫЕ ПРИМУТ УЧАСТИЕ В ФЕСТИВАЛЕ РОССИЙСКОЙ КУЛЬТУРЫ В ЯПОНИИ
Перед зрителями Страны восходящего солнца выступят ансамбль русской песни «Этнос», нивхский национальный ансамбль «Пила Кен» и труппа областного театра кукол.
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n4550 本年のベストスナップ 「誰に投票したのかな??」 サハリン発

2011-12-29 18:21:30 | 写真・映像

12月に行われたロシア下院議員選挙 投票所のショットです。

 親に同行した子供が投票箱を覗いている情景です。
 「お父さん・お母さん 誰の名前を書いたのかな・・・」
  投票所職員も笑顔で見守っています。

 本年のベストスナップです。(拍手) ソース Sakh.com  サハリンマン

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東芝 お前もか  東芝子会社、9億円所得隠し…公認会計士も同罪

2011-12-29 18:17:39 | 情報
 判らなければ良い好い との経営者判断 公認会計士は何をしていた。
この様な会計士は、国家認定を抹消するべきである。

 大手電機メーカー「東芝」の家電販売子会社「東芝コンシューママーケティング」(東京都千代田区)が、東京国税局の税務調査を受け、2010年3月期に約9億円の所得隠しを指摘されたことがわかった。

 販売促進を目的に家電量販店に支払っているリベートを巡り、支出の根拠となる契約書が存在しないケースが見つかり、経費の過大計上と認定された。申告方法の誤りを含めリベートに絡む申告漏れは計約29億円に上り、東芝は、同局の指摘に従って修正申告に応じた。

 東芝グループには税務上の赤字があり、東芝コンシューママーケティングを含めたグループへの追徴課税はなかった。

 同社は、東芝グループ各社が製造した家電製品を家電量販店などに卸販売する東芝の100%子会社。

 同社の説明などによると、同社は、家電量販店に対し、自社製品を積極的に販売してもらうなどの目的でリベートを提供。金額や支払い方法は、商品の販売量などに基づき、量販店と協議し決定している。

 同局でリベートの支払額と商品の販売量の関係を調査したところ、10年3月期にリベートとして計上されていた経費のうち、約29億円は、量販店への販売が予定されていたものの実際には実現していない家電製品に絡むもので、支出もされていなかった。

 さらに、このうち約9億円については、リベートの金額などを決定する際に量販店との間で交わすことになっている商談確認書が作成されていなかった。このため、リベートを仮装した経費の過大計上と認定されたという。

 約20億円については10年3月期以降にリベートとして支出されていたことなどから、経費としての計上時期が誤っていたと判断された。

 同社総務部は「量販店への過去の販売実績などを参考にリベートの見込み額を算出し、事前に経費計上していた。確認書がなかった部分についても、最終的にはリベートとして支出した。
仮装する意図はなかった」としている。

 見つからなければ、納税義務は生じないとの経営判断 公認会計士も同罪。
 情けない、年末の話題でもある。
 今度、何が飛び出しても驚かない。
 サハリンマン
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地震保険も政府指導体制か   共産主義化か 日本官僚主導

2011-12-29 17:52:20 | ロシア・地震予知情報
 地震保険 支払い基準見直しへ
1          2月29日 7時59分
 およそ1兆2000億円が支払われた東日本大震災による地震保険の保険金について、「支払いの基準」に不満があるケースが少なくないとして、日本損害保険協会は、基準の見直しを検討していくことになりました。

 東日本大震災では、今月14日までに過去最高の1兆1930億円の地震保険の保険金が支払われていて、支払い額は阪神・淡路大震災の15倍以上となっています。

 日本損害保険協会が、今回、支払いを受けたおよそ800人に「補償内容」や「支払いの基準」などの満足度を聞く調査をしたところ、「支払いの基準」についての満足度が、ほかの項目と比べて低かったということです。

 具体的には、現在の基準では、建物のおよそ半分が壊れる「半損」で、決められた保険金の50%が支払われるのに対して、それを僅かでも下回ると「一部損」となり支払い額が5%に落ちることに不満を感じるケースが目立つということです。

 日本損害保険協会では、こうした声を受け支払いの基準の見直しを検討することになりました。

 日本損害保険協会の栗山泰史常務理事は、「支払いを受けた2割ほどの契約者から、基準の見直しを求める声があった。国とも相談しながら見直しを進めていきたい」と話しています。

 損保民間企業がなんで政府と保障に関して相談して決める。
 政府の介入が明らかになっている。 損保会社も国営化か・・・官僚の天下り先の確保か・・・。 それは決して許さない。
官僚よ 余り国民を舐めたらあかん。
 サハリンマン
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国土を汚染する者は不健全な国民である 東電福島原発事故は第三の人災

2011-12-29 09:33:22 | 環境
 国土を汚染する者は、不健全な国民である 田中正造先生の格言

足尾鉱毒事件

 足尾鉱毒事件(あしおこうどくじけん)は、19世紀から21世紀の栃木県、群馬県の渡良瀬川周辺で起きた足尾銅山の公害事件。明治時代後期に発生した日本の公害の原点である。足尾銅山鉱毒事件と表記される場合も多い。原因企業は古河鉱業(現在の古河機械金属)。
過去の事件と認識されがちであるが、2011年現在も鉱毒物質の流下は続いており、決して過去の事件ではない。
鉱山の近代化
現在の栃木県日光市足尾地区では江戸時代から銅が採掘されていたが、江戸時代前期をピークとして産出量はいったん低下し、幕末にはほとんど廃山の状態となって国有化された。
明治維新後、民間に払い下げられ、1877年に古河市兵衛の経営となる。古河は採鉱事業の近代化を進め、1885年までに大鉱脈が発見された。さらに西欧の近代鉱山技術を導入した結果、足尾銅山は日本最大の鉱山となり、年間生産量数千トンをかぞえる東アジア一の銅の産地となる。当時銅は日本の主要輸出品のひとつであり、全国の産出量の1/4は足尾銅山が占めていた。しかし精錬時の燃料による排煙や、精製時に発生する鉱毒ガス(主成分は二酸化硫黄)、排水に含まれる鉱毒(主成分は銅イオンなどの金属イオン)は、付近の環境に多大な被害をもたらすこととなる。
鉱毒公害の発生 [編集]
鉱毒ガスやそれによる酸性雨により足尾町(当時)近辺の山は禿山となった。木を失い土壌を喪失した土地は次々と崩れていった。この崩壊は2009年現在も続いている[1]。崩れた土砂は渡良瀬川を流れ、下流で堆積した。このため、渡良瀬川は足利市付近で天井川となり、足尾の山林の荒廃とともにカスリーン台風襲来時は洪水の主原因となった。 鉱毒による被害はまず、1878年と1885年に、渡良瀬川の鮎の大量死という形で現れた。ただし、当時は原因が分かっておらず、これを8月12日に最初に報じた朝野新聞も、足尾銅山が原因かもしれないというような、あいまいな書き方をしている。1885年10月31日、下野新聞が前年ごろから足尾の木が枯れ始めていることを報じ、これら2つが足尾銅山と公害を結びつける最初期の報道と考えられる。
被害の拡大

田中正造
次に、渡良瀬川から取水する田園や、洪水後、足尾から流れた土砂が堆積した田園で、稲が立ち枯れるという被害が続出した。これに怒った農民らが数度に渡り蜂起した。田中正造はこのときの農民運動の中心人物として有名である。なお、この鉱毒被害の範囲は渡良瀬川流域だけにとどまらず、江戸川を経由し行徳方面、利根川を経由し霞ヶ浦方面まで拡大した。田畑への被害は、特に1890年8月と1896年7月21日、8月17日、9月8日の3度の大洪水で顕著となった。
1892年の古在由直らによる調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸。
1901年には、足尾町に隣接する松木村が煙害のために廃村となった。このほか、松木村に隣接する久蔵村、仁田元村もこれに前後して同様に廃村となった。
対策の節で述べる工事が1897年から1927年にかけて行われると、表だった鉱毒被害は減少した。しかし、渡良瀬川に流れる鉱毒がなくなったわけではなかった。他の地域と異なり、渡良瀬川から直接農業用水を取水していた群馬県山田郡毛里田村(現太田市毛里田)とその周辺では、大正期以降、逆に鉱毒被害が増加したと言われる。1971年には毛里田で収穫された米からカドミウムが検出され出荷が停止された。古河鉱業はカドミウム被害は認めていないが、群馬県がこれを断定した。

閉山
 1973年までに足尾の銅は掘りつくされて閉山、公害は減少した。ただし、精錬所の操業は1980年代まで続き、鉱毒はその後も流されたとされる。1989年にJR足尾線で貨物が廃止になると、原料鉱石の搬入量が減少し、鉱毒はさらに減少したとされる。
しかし、どの時代も科学的な分析がほとんどされていないため、公害の内容はあまり明らかにはなっていない。
明確に分かっている鉱毒の量は、1972年度、環境庁が足尾町に設置した測定局における二酸化硫黄(亜硫酸ガス)濃度が、旧環境基準に適合していなかった。足尾町内1局の測定局のうち、1局が不適合で、都市内全測定局の値が不適合となったのは、測定局のある都市の中では、この年度、足尾町のみである(ただし当時の環境白書は、鉱毒被害とは明示していない)。1981年9月7日に足尾町の中才浄水場から排出された排水から、基準値の2倍、協定値の3倍の銅が検出されたというものがある。このほか、毛里田村鉱毒根絶期成同盟会などが独自に測定した値などがある。

 2011年3月11日、1958年に決壊した源五郎沢堆積場が再び決壊。鉱毒汚染物質が再度渡良瀬川に流下した。同日発生した東北地方太平洋沖地震が原因と思われるが、詳細は不明である。この際は、下流の農業用水取水地点において、基準値を超える鉛が検出された。また、堆積場と渡良瀬川の間にあるわたらせ渓谷鉄道の線路が破損。同鉄道は運休を余儀なくされた。
1899年の群馬栃木両県鉱毒事務所によると、鉱毒による死者・死産は推計で1064人。これは、鉱毒被害地の死者数から出生数を単純に減じたものである。松本隆海は、すべてが鉱毒が原因だとはいえないかもしれないが、当時の日本は出生数のほうが多いにもかかわらず、死者数のほうが多いのは、鉱毒に関連があるとしている(実際には、鉱毒が原因で貧困となり、栄養状態が悪化して死亡した者が多く含まれていると考えられるが、田中正造や松本はこれらも鉱毒による死者とすべきだとしている)。この数値は、田中正造の国会質問でも使用された。
鉱毒激甚地であった当時の安蘇郡植野村字船津川地区(現佐野市船津川町)の死産率は明らかに全国平均を超えていることも鉱毒事務所は指摘している。松本隆海は、『足尾鉱毒惨状画報』(1901年)で、安蘇郡界村字高山(現佐野市高山町、当時の人口約800人)で、5年間で兵役合格者がわずか2名しか出ておらず(適齢者は延べ50名)、しかも、その合格者のうち1名も入隊後10日で病気で除隊となったという逸話を紹介している。田口掬汀は、海老瀬村の鉱毒被害者向けの診療所の医師に聞いた話として、忙しくて統計はとっていないが、ひと月に2300名を越える患者を診断し、うち半数が眼病であったが、これは地質が及ぼす結果だろうとこの医師は推測していることを佐藤儀助編『亡国の縮図』(1902年)で紹介している。また、元谷中村村民の島田宗三は、自身の父と祖父は、鉱毒水を飲んで胃を冒されて死亡した、と主張している。

チッソ水俣病 
 (写真家 ユージンスミス氏が現地で詳細な写真を記録し世界に発表したのが発端でもある。)

 水俣病(みなまたびょう)は、化成品メーカーであるチッソが海に流した廃液により引き起こされた公害病である。 世界的にも「ミナマタ」の名で知られ、水銀汚染による公害病の恐ろしさを世に知らしめた。なお、舞台となった水俣湾は環境庁の調査によって安全が確認され、現在では普通に漁が行われている。
環境汚染による食物連鎖により引き起こされた人類史上最初の病気であり、「公害の原点」といわれる。(2009年9月4日朝日新聞)

 1956年に熊本県水俣市で発生が確認されたことがこの病名の由来であり、英語では「Minamata disease」と呼ばれる。この後、新潟県下越地方の阿賀野川流域で昭和電工が起こした同様の公害病の病名も水俣病であることから、これを区別するために前者を熊本水俣病、後者を第二水俣病または新潟水俣病(にいがたみなまたびょう)と呼称する。ただし、単に「水俣病」と言われる場合には前者を指す。水俣病、第二水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそくは四大公害病とされ、日本における高度経済成長の影の面となった。

原因物質の特定
 原因物質は容易に確定されなかった。1958年7月時点では、熊本大学医学部研究班は原因物質としてマンガン、セレン、タリウム等を疑っていた。当時、水銀は疑われておらず、また前処理段階の加熱で蒸発しており検出は不可能であった。更に、有機水銀を正確に分析し物質中の含有量を測定する技術は存在していなかった。しかし、翌年熊本大学水俣病研究班は、原因物質は有機水銀だという発表を行った。これは、排水口周辺の海底に堆積するヘドロや魚介類から水銀が検出されたことによる。公式見解として、メチル水銀化合物 と断定したのは、1968年9月26日であった。 これは、水銀中毒であることは確かだが、当時、数ある有機水銀のうちのメチル水銀が原因であるという確証が得られなかったことに起因する。この物質がメチル水銀であったことはすぐに判明したものの、初期の曖昧な内容が東大医学部などの反論を招いた。そしてそれに対する再反論作成の必要に迫られるなどして原因特定の遅れを招くことになった。ただし当時の文献や、それを引用した文献では、原因物質は有機水銀と表記されていることがある。

原因究明への動き
水俣湾とチッソ水俣工場の位置関係。1932年から1958年まで、水俣工場から排水路を経由して百間港に廃水が流された。その後は、1968年に水俣工場でのアセトアルデヒド生産が停止されるまで、排出先が水俣川河口に変更された。
日本で水俣病とされるが集団発生した例は過去に2回ある。そのうちの一つは、新日本窒素肥料(現在のチッソ)水俣工場が、アセトアルデヒドの生産に触媒として使用した無機水銀(硫酸水銀)から発生したとするメチル水銀である。アセトアルデヒドは、アセチレンを希硫酸溶液に吹き込み、触媒下で水と反応させることにより生産される。工場は触媒の反応過程で副生されたアルキル水銀化合物(主として塩化メチル水銀)を排水とし、特に1950年代から60年代にかけて水俣湾(八代海)にほぼ未処理のまま多量に廃棄した。そのため、魚にメチル水銀の生体濃縮が起こり、これを日常的に多量に摂取した沿岸部住民等への被害が発生した。1960年には新潟県阿賀野川流域でも同様の患者の発生が確認され、新潟水俣病と呼ばれる。これは、阿賀野川上流の昭和電工鹿瀬工場が廃棄したメチル水銀による。 メチル水銀中毒が世界ではじめて報告されたのは1940年のイギリスである。このときはアルキル水銀の農薬工場における、従業員の中毒例であった。ハンターとラッセルによって、運動失調、構音障害、求心性視野狭窄がメチル水銀中毒の3つの主要な臨床症状とされたため、これをハンター・ラッセル症候群と呼ぶ。

1959年7月に有機水銀説が熊本大学や厚生省食品衛生調査会から出されると、チッソは「工場で使用しているのは無機水銀であり有機水銀と工場は無関係」と主張し、さらに化学工業界を巻き込んで有機水銀説に異を唱えた。これは当時、無機水銀から有機水銀の発生機序が理論的に説明されていなかったことによる。病気の発見から約11年が経過した1967年になり、ようやくチッソ工場の反応器の環境を再現することで、無機水銀がメチル水銀に変換されることが実験的に(いまだ”理論的”にではないことに注意)証明された。しかし、排水と水俣病との因果関係が証明されない限り工場に責任はないとする考えかたは、被害の拡散を防ぐための有効な手段をほとんど打てずに経年していく、という重大な問題を抱えることになり、結果として大量の被害者を生みだし、地域社会はもとより補償の増大などで企業側にとっても重篤な損害を生むもとになった。
原因の特定が困難となった要因の1つとして、チッソ水俣工場と同じ製法でアセトアルデヒドを製造していた工場が当時国内に7カ所、海外に20ヵ所以上あり、水銀を未処理で排出していた場所も他に存在したにも関わらず、これほどの被害をひき起したのは水俣のみであり、かつ終戦後になってから、という事実がある。この事実が化学工業会の有機水銀起源説の反証として利用されて研究が進まず、発生メカニズムの特定をとことんまで遅らせることとなった。

チッソ水俣工場では、第二次世界大戦前からアセトアルデヒドの生産を行っていたにもかかわらず、なぜ1950年過ぎから有機水銀中毒が発生したのかは、長期にわたってその原因が不明とされてきた。現在でも決定的な理論はまだ出現していない[3]。だが、生産量の増大ならびにチッソが1951年に行った生産方法の一部(助触媒)変更による水銀触媒のアルキル生成物の上昇が患者の大量発生になんらかの形で関係したと考えられている。生産工程の変更は、アセトアルデヒド合成反応器内の硫酸水銀触媒の活性維持のために助触媒として使用していた二酸化マンガンを硫化第二鉄に変更(近年の研究で二酸化マンガンが有機水銀の中間体の生成を抑える事が明らかになりつつある)したために、塩化メチル水銀などのアルキル水銀を多く発生させることとなり、それが排水として流されたことが考えられている。また、チッソ水俣工場がアセトアルデヒド生産を開始したのは1932年からで、年間生産量は1954年までは209 - 9,159トンであったが、1950年代中頃から増産が続き、1956年には前年度の約1.5倍の15,919トンとなり、1960年には45,244トンで最高となった。また、当時の生産設備は老朽化が進んでいたが、経費削減で更新を怠ったため、廃液の流出が年々加速度的に増えつつあったことが当時の薬剤購入量から示されている。[4]このように、この時期の生産量の急激な増大や、老朽設備運転による廃液量の増加に代表される利益至上主義による化学プラントプロセス管理の無視、助触媒の変更等が組み合わさった結果、最終的には大量のメチル水銀の生成につながったと考えられている。最近の研究によると、工場から海域へ廃棄されたメチル水銀の量は0.6 - 6トンに達したと推定されている。やはり化学工業会が反証として利用していた事実、すなわち、自然の海域には無機水銀をメチル水銀に変換する天然の細菌が存在するが、それらが生成するメチル水銀はごく微量であると熊本県は主張している(ただし実際には誰も研究しておらず、現在までに水俣湾の有機水銀濃度がこの細菌によって増えたというデータは存在しないだけであるが)。

このように、「水俣病発生当時、工場はメチル水銀を流していなかった」、「自然の海域で無機水銀から生成した有機水銀が水俣病の原因となった」などの主張に明確な根拠はない。そもそもの遠因として挙げられるのは、当時世界中で採用されていたアセチレン法アセトアルデヒド工法である。これはあくまで「経験的」に効率よい水銀の安定回収ができる工法であり、理論的な生成機序の研究はされておらず、したがって有機水銀の中間体が出来ることは誰も気づかなかったのである。

発見に関わる経過
既に1942年頃から、水俣病らしき症例が見られたとされる。1952年頃には水俣湾周辺の漁村地区を中心に、猫・カラスなどの不審死が多数発生し、同時に特異な神経症状を呈して死亡する住民がみられるようになった(このころは「猫踊り病」と呼ばれていた)。
1946年:日本窒素がアセトアルデヒド,酢酸工場の排水を無処理で水俣湾へ排出。
1949年頃:水俣湾でタイ,エビ,イワシ,タコなどが獲れなくなる。
1952年:熊本県水俣で最も早期の認定胎児性患者が出生。ただし認定は20年後。
1953年:熊本県水俣湾で魚が浮上し,ネコの狂死が相次ぐ。以後,急増。
1954年:8月1日付熊本日日新聞で、ネコの狂死を初報道。
水俣病患者で最古の症例とされるのは、1953年当時5歳11ヶ月だった女児が発症した例である[5]が、患者発生が顕在化したのは1956年に入ってからである。新日本窒素肥料水俣工場附属病院長の細川一は、新奇な疾患が多発していることに気付き、1956年5月1日、「原因不明の中枢神経疾患」として5例の患者を水俣保健所に報告した。この日が水俣病公式発見の日とされる。
1954年:熊本県水俣でのちに水俣病と認定された患者が12人発生。ほかに5人死亡。
当初、患者の多くは漁師の家庭から出た。原因が分からなかったため、はじめは「奇病」などと呼ばれていた。水俣病患者と水俣出身者への差別も起こった。その事が現在も差別や風評被害につながっている。
1956年:5歳11か月の女児がチッソ水俣工場付属病院小児科に入院。5月1日に水俣保健所が「原因不明の奇病発生」として水俣病を公表。後に水俣病の「公式確認」となる。この年,50人が発病し11人が死亡。
1956年頃から、水俣周辺では脳性麻痺の子どもの発生率が上昇していたが、1961年、胎児性水俣病患者が初めて確認された。水俣ではその後、合わせて少なくとも16例の胎児性患者が確認されている。水俣病の原因物質であるメチル水銀は胎盤からも吸収されやすいため、母体から胎児に移行しやすい。さらに、発達途中にある胎児の神経系は、大人よりもメチル水銀の影響を受けやすいことが今日では明らかになっている。
1957年:水俣保健所の実験で,水俣湾内で獲れた魚介類を与えたネコに奇病発生。
1958年:熊本県が水俣湾海域内での漁獲を禁止。
水俣近海産の魚介類の市場価値は失われ、水俣の漁民たちは貧困に陥るとともに食糧を魚介類によらざるをえなかった為、被害が拡大されていくことになった。
水俣市では新日本窒素肥料に勤務する労働者も多いことから、漁民たちへの誹謗中傷が行われたり新日本窒素肥料への批判を行う者を差別することも多かった。[6]。
1958年9月、新日窒水俣工場は、アセトアルデヒド酢酸製造設備の排水経路を、水俣湾百間港から不知火海(八代海)に面した水俣川河口の八幡プールへ変更した[7]。しかし、1959年3月から水俣病患者は、水俣湾周辺に留まらず、水俣川河口付近及び隣接する津奈木町や海流の下流部にあたる鹿児島県出水市と不知火海沿岸全体に拡大していった。このことによってアセトアルデヒド酢酸設備排水が水俣病を引き起こすことは明らかになった(これを「壮大なる人体実験」と水俣病関係者は呼んでいる)。 1959年10月、この事実を知った通産省は新日窒に対しアセトアルデヒド製造そのものの禁止はせずに、アセトアルデヒド製造工程排水の「水俣川河口への放出」のみを禁止した。新日窒は通産省の指示に従い、排水経路を水俣川河口から水俣湾百間港に戻し1968年まで排水を流し続けた。 また、同じ1959年の10月に新日窒附属病院の細川一院長は、院内ネコ実験により、アセトアルデヒド酢酸製造工場排水を投与した猫が水俣病を発症していることを確認し、工場責任者に報告している(猫400号実験)。しかし、工場の責任者は実験結果を公表することを禁じた[8]。

同じく1959年には、熊本大学医学部水俣病研究班が水俣病の原因物質は有機水銀であると公表しており、水俣病の原因が新日本窒素肥料水俣工場から排出された水銀である疑いが濃くなった。同年11月12日には厚生省食品衛生調査会が水俣病の原因は有機水銀化合物であると厚生大臣に答申したが、その発生源については新日窒水俣工場が疑われるとの談話を残すに留まり、直接答申者である調査会の「水俣食中毒特別部会」は翌13日に解散させられた。
この水俣病の有機水銀原因説に対して新日本窒素肥料や日本化学工業協会などは強硬に反論した。厚生省食品衛生調査会が水俣病の原因を有機水銀化合物と結論。

一方、1959年12月30日には、新日本窒素肥料は水俣病患者・遺族らの団体と見舞金契約を結んで少額の見舞金を支払ったが、会社は汚染や被害についての責任は認めず、将来水俣病の原因が工場排水であることがわかっても新たな補償要求は行わないものとされた。同時に工場は、汚水処理装置「サイクレーター」を設置し、工場排水による汚染の問題はなくなったと宣伝したが、のちに「サイクレーター」は水の汚濁を低下させるだけで、排水に溶けているメチル水銀の除去にはまったく効果がないことが明らかにされた。このほかこの年には、新日本窒素肥料は、排水停止を求めていた漁業組合とも漁業補償協定を締結した。これらの一連の動きは、少なくとも当時、社会的には問題の沈静化をもたらし、水俣病は終結したとの印象が生まれた。実際には、それまで水俣湾周辺に限られていた患者の発生も、1959年始めころから地理的な広がりを見せており、このあとも根本的な対策が取られないままに被害はさらに拡大していった。その一方、声を上げることのできない患者たちの困窮はさらに深まっていった。 1960年、政府は経済企画庁、通商産業省、厚生省、水産庁からなる「水俣病総合調査研究連絡協議会」を発足させて原因究明にあたらせたが、何の成果も出すことなく協議会は翌年には消滅している。

このころ、清浦雷作・東京工業大学教授はわずか5日の調査で「有毒アミン説」を提唱し、戸木田菊次・東邦大学教授は現地調査も実施せず「腐敗アミン説」を発表するなど、非水銀説を唱える学者評論家も出現し(御用学者)、マスコミや世論も混乱させられた。

なお、2004年10月の水俣病関西訴訟における最高裁判所判決は、国や熊本県は1959年の終わりまでには水俣病の原因物質およびその発生源について認識できたとし、1960年以降の患者の発生について、国および熊本県に不作為違法責任があることを認定している。
1961年:水俣市で女児(3歳)死亡。病理解剖で胎児性水俣病と確認。
1962年:水俣病審査会,脳性小児マヒ患者16人を胎児性水俣病と認定。
1963年:熊本大学が水俣病の原因はメチル水銀化合物で,これは水俣湾内の貝や新日本窒素工場の汚泥から抽出されたと公式発表。
1965年、新潟大学は、新潟県阿賀野川流域において有機水銀中毒と見られる患者が発生していると発表した。これはのちに新潟水俣病あるいは第二水俣病と呼ばれるようになる。
政府が発病と工場廃水の因果関係を認めたのは1968年である。1968年9月26日、厚生省は、熊本における水俣病は新日本窒素肥料水俣工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀化合物が原因であると発表した。同時に、科学技術庁は新潟有機水銀中毒について、昭和電工鹿瀬工場のアセトアルデヒド製造工程で副生されたメチル水銀を含む工場廃液がその原因であると発表した。この2つを政府統一見解としたが、この発表の前の同年5月に新日窒水俣工場はアセトアルデヒドの製造を終了している。このとき熊本水俣病が最初に報告されてからすでに12年が経過していた。なお、厚生省の発表においては、熊本水俣病患者の発生は1960年で終わり、原因企業と被害者の間では1959年12月に和解が成立しているなどとして、水俣病問題はすでに終結したものとしていたが、その後の展開から見てもこれは妥当な判断であったとは言い難い。事実、国は水俣病発生の責任を認めず、原告と国との裁判はその後も続いた。国は1990年に出された裁判所の和解勧告(9月に東京地方裁判所が、10月に熊本地方裁判所と福岡地方裁判所が相次いで同じ趣旨の勧告を出す)を拒否しており、和解に転じるのは1996年のことである。また、原告で和解を拒否した水俣病関西訴訟の裁判は、上記のように、2004年10月まで続いた。

公害裁判
1967年、新潟水俣病の患者は昭和電工を相手取り、新潟地方裁判所に損害賠償を提訴した(新潟水俣病第一次訴訟)。四大公害裁判の始まりである。政府統一見解後の1969年6月14日には、熊本水俣病患者・家族のうち112人がチッソを被告として、熊本地裁に損害賠償請求訴訟(熊本水俣病第一次訴訟)を提起した。
1969年:公害被害者全国大会開催。水俣病,イタイイタイ病,三池鉱山の一酸化炭素中毒,森永ヒ素ミルク中毒,カネミ油症などの被害者代表百数十人が集まる。
1970年:大阪厚生年金会館で行われたチッソ株主総会に、白装束の患者(一次訴訟原告家族)らが、交渉を拒みつづけたチッソの社長に直接会うために、一株株主として参加した。大阪・水俣病を告発する会発足。
1971年、新潟水俣病一次訴訟の判決があり、昭和電工は有害なメチル水銀を阿賀野川に排出して、住民にメチル水銀中毒を発生させた過失責任があるとして、原告勝訴の判決が下された。これは、公害による住民の健康被害の発生に対して、企業の過失責任を前提とする損害賠償を認めた画期的な判決となった。
1971年:水俣病患者が新たに16人認定される。患者総数150人,うち死者48人。
1973年3月20日には、熊本水俣病第一次訴訟に対しても原告勝訴の判決が下された。すでに熊本県で水俣病が発生したあとに起きた新潟水俣病の場合と異なり、熊本での水俣病の発生は世界でもはじめての出来事であった。そのため、熊本第一次訴訟で被告のチッソは「工場内でのメチル水銀の副生やその廃液による健康被害は予見不可能であり、したがって過失責任はない」と主張していた。判決はこれについても、化学工場が廃水を放流する際には、地域住民の生命・健康に対する危害を未然に防止すべき高度の注意義務を有するとして、公害による健康被害の防止についての企業の責任を明確にした。
1973年:環境庁が水銀値25ppm以上の底質(海底や川底)はすべて除去することを決める。これに基づき水俣湾の汚泥除去と埋め立てが行われる。
1973年:水俣市の水俣病認定患者が自殺。

補償と救済
水俣病として認定された患者は原因企業であるチッソおよび昭和電工からの補償を受ける。補償内容は1973年に患者と原因企業間で締結された補償協定により、一時金一人1,600万~1,800万円、年金、医療費の支給などで、認定患者の数は約3,000人(死者含む)である。公害健康被害の補償等に関する法律(公健法)による水俣病の認定は、国(環境省)の認定基準にしたがって、国からの委託を受けた熊本県・鹿児島県および新潟市が行う。
1974年:5歳で水俣病に冒され、18年間危篤状態だった女性が死亡。水俣病患者100人目の死者。
1975年:チッソ幹部が水俣病の「殺人、傷害罪」で告訴される。
昭和63年2月、チッソ元社長ら業務過失致死罪で有罪判決。
1975年3月、水俣病関西患者の会が結成される。
1976年:熊本地方検察庁,水俣病でチッソ関係者を業務上過失致死傷害罪で起訴。4大公害事件で初の刑事訴追。昭和54年3月22日、熊本地裁で有罪判決(福岡高等裁判所支持)。

現在の認定基準は1977年に「後天性水俣病の判断条件」として公表された判断条件(昭和52年判断条件とも言われる)で、汚染地区の魚介類の摂取などメチル水銀への曝露歴があって感覚障害が認められることに加え、運動障害・平衡機能障害・求心性視野狭窄・中枢性の眼科または耳鼻科の症状などの一部が組み合わさって出現することとされている。
1979年:熊本地域水俣病に関わる刑事事件で、被告の元チッソ幹部2人に有罪判決。
一方、この水俣病認定基準が医学的ではなく政治的で不十分であるとの批判があり、この認定から外れた住民(未認定被害者)の救済が今日まで続く補償・救済の主要な問題となってきた。
1980年:水俣病認定申告者が国・県も被告に加え提訴。第3次訴訟。以後申請者の提訴が相次ぐ。平成5年、地裁が国・県の発生拡大責任を全面的に認める判決。
1982年:「チッソ水俣病関西訴訟原告団(団長岩本夏義)」結成、チッソ水俣病関西訴訟提訴。
1987年:水俣病第3次訴訟で、熊本地裁がチッソとともに初めて国と県の責任を認め、総額6億7,400万円の支払いを命じる。
1988年:水俣病の刑事裁判で、最高裁がチッソ元社長と元工場長の上告を棄却、懲役2年・執行猶予3年の有罪判決。起訴以来32年。
1989年:週刊新潮2月16日号pp31-32に〝水俣病「ニセ患者」も三十年〟として胎児性患者・上村智子の母親の意見を掲載

 サハリンマン
今回の東京電力 福島原発事故に関して事故は、人的災害によるものと判明した場合(間違いなく人災である) 。

 当事者「東電経営者」は、「環境破壊・汚染等」有罪になる。 
当然、原発運営を指導・監督していた政府「経済産業省・原子力委員会・原子力村と呼ばれている研究者」が責任を問われるのは間違いない。

 地球規模での放射能汚染を引き起こした事は、逃れないものである。
当然、司法判断になる。長期間の裁判を覚悟しなければならない。
その為の対応として次世代にその背景を詳しく教義しておきたいものである。 

 「国土の尊厳を犯すものは、必ず滅びる」「国土は未来永久に何億年経っても生かして使える。われわれ人類が生きているのは、国土があるからだ。その国土を一寸の土地まで粗末にする考えは間違っている」
足尾鉱山 鉱毒被害民の救済運動を展開した田中正造氏の格言でもある。
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アイスホッケー アジアリーグPO進出争い 北海道発

2011-12-29 08:48:16 | 娯楽・スポーツ

 日本・韓国・中国の7チームが戦う アイスホッケー アジアリーグが前半戦を終了。

成績は、ハルラ「韓国」がトップで三連覇を狙っています。 二位に日光アイスパック 三位・王子イーグルス 四位・ハイワン アイスホッケー「韓国」 五位・日本製紙クレインズ 六位・東北フリーブレイズ 七位・チャイナ ドラゴン「中国」

 ゴールランキング 断トツはハイワン チームのスウィフト選手の33点 二位に日光のボンク選手が22点で続いている。

 リーグ戦は来年2月26日まで続く 開催地は日本・韓国・中国と持ち回りで行われる。

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権力のメディア封じ込め作戦 20年間進展していない ロシア行政当局 サハリン発

2011-12-29 08:45:37 | 情報
 サハリン州政府の反体制派報道に関与するマスメディア封じ込め作戦は、本格的に民主主義報道を攻撃している。

 この背景は、今回のロシア下院議員選挙の不正投票との疑惑が浮上している事。
地元では、市内 勝戦記念広場に州政府がロシア正教会の教会を設立する構想が浮上した時点から反対派市民が、州政府に公開質問状を提出したが。 
現在まで回答を得ていない不信感から問題が大きくなっている。

 地元新聞は、州政府に「沈黙するのか 真実を言うのか」と追った。
州政府は取材を拒否した上 地元企業に当該新聞社への広告出稿停止を以来、それと同時に新聞の扱い停止を州各所の新聞販売店に禁止措置を講じた。
州政府も当該新聞社の「発行禁止」措置はできなかった。
国際的にも「表向き民主主義国」の面目を保つ作戦ともとれる。

 しかし これが、ロシア民主主義に変貌して20年の結果なのか・・・。
当新聞社の編集担当者は、「政治家は俳優で、庶民は観客 批判が嫌いなら 辞任すべき」と公言している。

 国民の知る権利を無視する当局・政治屋・エセ官僚らは、抹消するべきと考える。

しかし、サハリン州ホロシャビン知事は「報道の自由は、政府の制限を受けなければならない」と11月末に発言している。

 革を被った「狼」と度のように対処するべきか、国民と真っ当なマスメデァは即刻対応策を講じなければならない。 恐れる事はない「正義」が生き残るのである。

 頑張れマスコミ人間。  サハリンマン 権力者は絶えず[庶民・国民]の反乱を恐れている。
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不祥事 邦人役人天国 自己責任で処理せよ

2011-12-28 09:45:30 | 情報
 写真 今年最悪の役人「外交官」 

東京国税局は26日、所得税の確定申告書を作成した見返りに報酬90万円を受け取ったとして、東京都内の税務署に勤務する男性職員(49)を国家公務員法違反(信用失墜行為)で懲戒免職処分にしたと発表した。


 同局は「税務調査への影響はなく、税理士法にも抵触しないと判断した」としている。


 発表によると、職員は、個人事業主3人と税理士の計4人の税務相談に乗り申告書を作成。2008年3月~11年11月の間に計30回にわたり、計90万円を妻名義の口座に振り込ませて受け取っていたという。(2011年12月27日17時53分  読売新聞)


 


 日本の天下り汚職腐敗官僚のやっていることは、全世界的に見ても凶悪犯罪行為になる。
日 本の悪徳官僚と、それに追従する公務員の悪事は、やがていつか必ず清算されるだろう。
公務員以外の一般民衆は、あまりにも搾取されすぎており、あまりにも愚弄されすぎている。
表面的には物腰が低くて、とても丁寧で親切そうに見えるが、こういう官僚や公務員が裏でやっている悪事の数々は、とても許されるものではない。
マスコミ等では、たまにこれを指摘し、暴露するが、勘違いしてはならないのだが、それだけで何かが変わるということはないのだ。
あたかもそういう報道があったら、即座に捜査機関が動いて、摘発して処罰するかのように誤解している人が多いが、それは大間違いだ。
 そもそもその監査機関そのものが腐敗していたり、悪事を行っていることもあるし、またこういう連中は、東京大学卒などのきわめて偏差値が高く学力があり、知能も優れているので、常に逃げ道を確保しているのだ。

 そして常に詭弁を多用し、弁解のプロであり、いろいろな言い訳をする。
そして処罰されないようにあらゆる工夫をしているし、権力者を操っているのだ。
事実上日本は、民主主義国家などではなく、官僚主義国家なのである。
日本を民主主義国家だと誤解している人が多い。

 一般的に、官僚や公務員は住民のために懸命に努力して働いていると思われている。
これも間違いである。
確かに中にはそういう人も存在する。
だが、そういう人は逆に組織から疎まれており、奇人変人の扱いをしている。
正義感が強いと悪事を実行するのにも抵抗があるので、悪の組織からすれば邪魔者である。
 そしてそういう正しい人が、追放される事が多い。
後に残るのは、筋金入りの邪悪な連中である。
 この邪悪な連中は、そういうの悪のプロであり、そこいらの庶民的な悪とは別次元のものである。こういうことは、日本だけの事ではないが、この日本独特の官僚不正システムはやはり国際社会では通用せず、ときどき問題視される。

 日本人ならあきらめてしまうような悪の風習についても、他国はそれを見逃さないのだ。今まではこの官僚犯罪が、放置され、摘発される事なく見逃されてきた。
しかし、厳しい財政事情もあり、今後も官僚天国、役人天国が維持できるのかどうか疑問である。
少子化の影響もあり、財源確保も困難だ。
 いくら増税しようとしても、そもそもはじめから貧しい庶民からは金を奪うことはできない。
一番不正な金を蓄財しているのは、官僚や役人自身だからだ。また電力会社など、一応は表面的に民間企業とはなっているが、ほとんど官僚組織と同じである場合も腐敗が深刻である。

 腐敗が進むとそれを訂正したり、修正したり、改善する事はできず、あとは隠蔽しかない。
昔ならともかく、情報化時代の現代では、すべての悪事をいつまでも隠し続けることはできない。
しかし、一般的に思われているほど金持ちは幸福ではないらしい。
よく聞く話では、預金通帳の金の数字が増えるだけで、それがいつのまにか、移動し、変化するだけであると主張する者もいる。

 もしも日本の天下り犯罪が根絶されたら、どうなるのかを知りたいものだ。
あまり変化はないのか、それとも激変するのか、別の不正行為がはじまるのだろうか。
こういう特権階級の人間と、たまに遭遇する事があるが、すでに魂は天高く中を舞い上がっており、もはや貧しい庶民の生活などまったく考慮していないとわかる。

 要するに自分達は、特別な存在であるという差別意識が強い。
それは本人だけでなく、家族全体に及んでおり、その特権階級の子供もやはり異常である。
そして公務員になっていることが多い。
この連中は、どこまでも貧しい庶民を踏みにじりながら、優越感を持って生きているのだが、こういう連中が、消えても、あまり誰も悲しまないし、気にもしないことがわかった。
またそれほどの影響力もないことがわかった。

 日本国民はもっと民主主義を理解しなければならず、民主主義活動を実行しなければならない。

 甘いのは、日本の官僚行政と政治屋の癒着でもある。

 経済産業省の元審議官(官房付)によるインサイダー取引疑惑を受け、同省が全職員を調査したところ、特許庁の2職員が内規に違反して特許の審査などを担当した企業の株式を取引していたことがわかった。
 同省は27日、2職員を訓告処分にしたと発表した。
 
 同省によると、40歳代の男性審判官(室長級)は2009年5月~10年10月、担当する4企業の株式を7回売買。
40歳代の男性審査官(課長補佐級)は10年2月~9月、担当する1企業の株式を4回売買。ともにこの取引で数万円の利益を得ていた。
2人とも「内規違反とは気づかなかった」と説明しているという。同省は「特許にかかわる内部情報が株価に与える影響はほとんどなく、インサイダー取引に当たる可能性は低い」としている。
(2011年12月27日12時04分 読売新聞)

 特許審査に携わる役人が、この様な不祥事を起こした事は、国際間での信頼を喪失させる重大な事件でもある。
経産省・特許庁は即刻、2職員を懲戒免職にすべきである。
名を変えた汚職でもある。 

 役人の名前も出せない読売新聞の無力を強烈に感じる。 
この様な新聞発表をすると特許庁の同年代(他の真面目な役人)に大きな疑心暗鬼が起きるのだ。
記者発表で特許庁広報官から「当事者は家族もいます。御配慮をお願いします」と一言。 平素から記者らは、東電・福島原発で経産省に世話になっている事も背景にあると考えられる。
この様な事案は、地方紙でも多々見られる。
マスメデァが、真剣に線引きを行わないと日本は沈没する。
 サハリンマン

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