2010年GW・北東北の旅・その17:長勝寺とお寺達
黒門(一の門)の先には別世界があるという。
「長勝寺構と呼ばれる禅林街入り口にある黒門で、禅寺が林の様に並んでいる事から禅林街と呼ばれる様になった」とあった。門を一歩入ると両側に並んだ数々のお寺、壮観としか言いようがない。
5月3日GW2日目のこと、盛岡から東北道を弘前入り、黒石ICに回ったせいか渋滞もなく順調に到着、ホテルに車を預け後は歩け歩けで弘前公園、藤田記念庭園と巡り、絶対に行くと決めていた禅林街へやって来た。藤田記念庭園からは地図上ではすぐと考えたが意外に距離があり、30分近く掛かっていた。黒門を入り一つ一つ確かめながら歩を進めたが、道路の両側お寺ばかり、時折現れる民家らしきものも、敷地内の幼稚園のようだった。全部は載せきれないので、適当に見繕ってみた。
詳しい資料も地図も持たずに訪れたので、上寺通りと下寺通りの二つの通りがあることすら気が付かなかった。それでも特徴的な建物は気になったので撮っておいたが、六角形の塔は「栄螺堂」というらしい。新築されて間がないと思われる真新しいお堂のお寺も数あった。今までも各地の寺町を訪れているが、33もの寺院が同一宗派・曹洞宗の寺院とは、初めてのことだった。いわば同業者の集合体、秋葉原や繊維問屋街などに見られるが、33ものお寺が並んでいては、生業が気になった。
歩く人は時折しか見かけない通りを行くと、突き当たりは「長勝寺」二の門だった。門前には自家用車とタクシー、2・3台の車が入れ替わって出入りしていたのみ。歩いてきたのは上寺通りであろうか。
門内にそそり立っていたのは長勝寺三門、そそり立つと形容出来ようか、三門を含め多くの建造物が重文に指定されている古刹である。逆光で暗くつぶれてしまったが、重厚さは出ていよう。
境内側から眺めると、細密な様子が分かった。
境内のあちこちで工事が行われていて自由に歩き回れなかったが、先客がご住職の説明を受けていた。いつもの奥の手、何気なく近寄り耳を傾けると・・・禅林街成り立ちの由来を語っていたようだった。曰く「城の南の守りを固めるととも領内の宗教文化の統一をはかったものである。守りとは、横一列に切れ目無く、更に幾重にも寺院を配置することにより、壁・城壁の役割をなす。」と。確かに市街地は碁盤の目の配列が普通、それに比べると横道はなく切れ目無く並んでいた。上と下の通りも入り口あたりで行き来し、途中通える道はないようだった。
本堂前の通路も工事のため狭く、そこにも先客有り、寺のお内儀であろうか数名の客に同じような解説をしていた。道が塞がれすり抜ける訳にも行かず、奥へ進むのは諦めて引き返すことにした。(立て看板があり、奥での拝観は申し出ることの旨有り。おそらく料金=お布施が必要なのであろう!さらば退散!!)本堂裏手藩主の霊屋が逆光の中にあったが、本堂の屋根の奥に僅かに覗く塔屋は御影堂覆堂であろうとは、後に気付いたこと・・・。
霊屋(たまや)とは、津軽藩主歴代の霊廟で、五棟が一列に並んでいた。近寄って撮したかったが、結界があり「これより先は寺務所へ連絡下さい」と、やはり立ち入れなかったので、可能な限りの範囲で撮ってみたが、件の如し・・・。
二の門の脇に公園があった。禅林公園とあり、家族連れがたった一組、盛りの桜の下でピクニックを楽しんでいた。画像では一本だが、並木となっていてお花見には十分だった。
公園の一角には「忠霊塔」が有り説明文には「第二次世界大戦で戦死した戦没者の供養塔」とあった。
公園は高台となっていて、正面に岩木山が聳えていた。高速道で弘前入りした頃には、青空の中“おいわきやま”も全身を見せていたが、午後になって雲が湧き出て、かくのごとし!!残念!!!
ゴールデンウイークから既に一月ほど経ってしまって、思い出話の様相を呈してきた。神社仏閣に特に興味が有る訳ではないが、落ち着いた佇まい、伝統的木造建築、広い境内と森や庭、宗教や文化財としての関心は無くても“癒し(表現としては好きではないが、この言葉しか思いつかない)”を与えてくれるので、つい立ち寄ってしまう。今回の旅も、「桜」と「寺」と「伝統文化」の三題話となってしまった。思い出が消えないうちに、今少し最後まで纏めてしまうことにした。
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