1959大峰山奥駆け:3
2日目暗くなる前には山上ヶ岳大峰山寺の宿坊に入っている。修行場ののぞきまで行った記憶はあるが、暗くなっていて側には近づいていないはずだ。さすがに自炊炊飯は出来ないので、米を渡して炊いてもらった。記憶を辿っていると、断片的だが少しずつ思い出してくることが増えてきた。
翌朝はもちろん早立ちして、阿弥陀ケ森から大普賢岳方向を目指している、と、後から集団に追い越された。奥駆けの講中の一行だった。重装備の我々に比べ山伏姿の軽装の一行は、跳ぶように駆け抜けていった。しかし、間もなく追いつくことが出来たのは、奥駆け修行の所為だった。
随所に存在する祠や佛像に祈りを捧げながら行脚するので、修験道なのだ。率いていた先達は山伏姿ではなく、僧侶のいでたちであった。
読経の終わりを見計らい教えを請うと、快く祠や佛像の解説をしてくれた上、その後の同行を認めてくれた。もちろん歩行速度の違いがあるので、つかず離れず程度、夜の宿泊地を同じにする程度しか方法はなかったが・・・。
大峰山寺出立前偶然出会い、山伏姿が珍しくお願いして撮った朝靄の中の写真があった。暗くなって到着早朝出立では、大峰山寺の写真はこれしかない。修行場の“覗き”はweb上で見ればよい。
山伏と言えば矢張り法螺貝が似合う。魔を破る音、降魔の儀式の約束の音と言われているが、アクセサリーとしてもなかなかの物だ。
*後日談になるが、帰京後の秋か次の春かは失念したが、この先達の僧の死亡記事が、新聞全国紙の社会面の上段に囲み記事として載っていた。特別の扱いの故は、京都の名刹の住職で、仏教界ではかなりの高名な方だったようだ。今写真で見ても、凛々しく高貴なお顔をしているが、寺名もお名前も記憶にないので調べようもなく、親切にして頂いただけに残念な思いをしている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます