漫筆日記・「噂と樽」

寝言のような、アクビのような・・・

細川幽斎やガラシャ夫人につながる血筋

2010年05月06日 | Weblog
今日の昼間、
NHKの番組に、細川元首相が出ておられました。

「第七十九代・内閣総理大臣」の細川護熙(もりひろ)氏。

「最近は、公的な場へは出ず、
 焼き物やお百姓のまねごとなど、晴耕雨読の日々です」とは御本人の謙遜(けんそん)。

近く細川家所蔵の名品展があるとかで、久し振りのテレビ出演。

ご自分が、信楽の土で焼かれたとか云う
素朴なお地蔵さんを持参しておられたのですが、
一見して「あ、欲しい」と思わせるに十分な、素敵な仕上がりでした。

細川家と云えば、
日本の名族、数ある中でも屈指の名家、

足利尊氏に従って武功を挙げ、
室町時代には、国政を左右する管領の家柄となり、

やがてその足利将軍家が衰退し、

最後の将軍・足利義昭が、
織田信長を頼った時に仕えていた細川幽斎は、

後、義昭が信長と喧嘩別れした際には、
信長の方に付き従い、

信長が明智光秀に討たれた時は、

光秀と深く親交があり、
しかも、息子の嫁、細川ガラシャの実家であるにも拘わらず、

光秀に味方せず、

関ヶ原の際にも、家康を支持するなど、

信長、秀吉、家康と、
常に勝ち馬に乗り続けた、「時勢を見るに敏な」戦国武将でした。

しかも幽斎は、茶人としても名の高い文化人、
そのあたりの血が、護熙氏にも流れていると云う事なのでしょうか。

やがて、熊本の藩主となった細川家は、
明治維新で華族となり、戦後は平民となって今に続くわけですが、

華族時代の護熙氏のお父上は、
実質的に「熊本のお殿様」としての暮らしぶりだったようですから、

今では平民とは云っても、

護熙氏の品の良さ、鷹揚(おうよう)な話しぶりなど、
「いかにも貴人」と云う雰囲気は、庶人出の文化人には見られぬモノ、

テレビから伝わる雰囲気は、
「江戸時代の殿様」とは、こうだったろうな、と思わるモノがありました。

首相時代のことを聞かれた時も、
生臭さの抜けたご隠居らしく、駘蕩(たいとう)とした話しぶり、

尤も、
「遣り甲斐もあったし、つらいこともあった、
 嬉しいことも、悔いの残ることもあったが・・・」と、多くは語られなかったが。

番組が終わったあとで、

もし、司会者が、
「小沢一郎氏とはどんな方ですか」と、
質問していたら、どんなだったろうか、と、チョッと気になった。

氏の首相時代の政権は、
実力者であった小沢一郎氏と、
官房長官の武村正義氏が烈しく対立し、遂には内閣が潰れた印象がある。

たとえ質問が発せられても、
おそらく「本当のことは云わずじまい」だったろうけれど、

ただ、質問に対しての反応、

苦笑いや困惑など、その表情の変化で、
「氏の小沢氏への評価」が知れるような気がしたのだが・・・。






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