熊野古道へ行く予定でしたが関西以東は天候が思わしくないので行先を西へ変更し特に用事もなく松山へ。松山には数年住んで居たことがあります。初めて空手を習ったのも此処松山。転勤族で色々住みましたが一番心に残っているところです。
予定はないのでブラブラ住んで居た辺りと通学路を歩いてみました。住んで居た社宅は取り壊され浮いた感じのシャーメゾンに。
裏側。毎日塀からこの田圃にダイブし遊んだりショートカットしたり。高確率で主に見つかって怒られました。
毎日通った駄菓子屋は無くなりましたが前のかまど神社はそのまんま。
よく干上がってその都度鮒が大量死していた神社裏の池。息子は溜め池が珍しいので直ぐに寄って行きますが親目線になると相当危ない。田舎に危険は溢れていましたが危険と過干渉の間が難しいですね。
記憶の中の風景を残しながら変わった町並み。懐かしいやら寂しいやら。そらいつまでも昭和のままではいられませんけど記憶ってのは汚い町並みですら美しいもんです。
しかしゴーストタウンちゃうかってぐらい人がいません。懐かしい松山弁を聞きたかったのですが。強烈に印象に残っているのは『あおぢ』。
空手を始めた公民館。二階手前の部屋で算盤をしていると同時刻に隣りの部屋で空手をしていました。算盤行く度に目にするので興味は持っていましたが決め手になったのは組手していた上級生が蹴り飛ばされて積み上げてた長机の山に突っ込み雪崩に遭ったのですが、物ともせず机をどかして飛び掛かっていった姿を見たこと。算盤なんぞやってられるかと思ったのを憶えています。
小学校が見えました。この池は乃万八郎兵衛さんが掘ったんだったかな。池を見たら急に思い出しました。
卒業した小学校ではないのですが卒業した方より思い出深いのは初めてを沢山経験したからでしょうか。学校も道場もやたら北に縁があります。
通学路から逸れて空手教室の移転先へ。三年生時の途中から遠くなりました。普通に迷いました。
いやあ懐かしい。脳内では堀内孝雄氏の『時の流れに』がリピート再生されてます。この地が忘れ得ない場所となっているのは「初めて」が多かったからでしょうか。数歩毎に記憶が溢れて郷愁に耽ってしまいます。
が、私の過去など関係も興味もない妻がブーブー言って倦怠な現代へ呼び戻されるので歩くのは止めて市街地へ。息子は田舎の生い茂る草木を楽しんでいるので微笑ましいですが今度来る時は一人で来よう(苦笑)
途中とある神社にある公園に寄りました。名前は知りませんが松山に越してきて早々此処で左腕を粉砕骨折しました(笑)肘が反対に曲がった衝撃は中々なもんでした。なぜ鳥居に石が乗っているのか。不気味。
ありました。多分物は変わってますが濡れていたこれで滑って手を着いてバキっと。そう思ったら息子の鈍臭さを笑えないな。
息子の希望で坊っちゃん列車を見にきました。姫路城に行ったから城にはもう興味ないそうです。運良く続けてやってきました。息子ともう一人小さい子が先頭で駅に入ってくるのを待っていたら撮り鉄のオッサンが割り込んできて二人を遮り写真を撮り始めました。何という器の小ささか。思わずオイコラ撮り鉄邪魔やねんと言ってしまいました。おのれのうっすいうっすい頭頂部がフレームにインしとるやないけ、は留めました。
路面電車を堪能した次はみかんジュース。蛇口から出ます。但し100円。
そこから割と近くにある思い出の病院へ。随分綺麗になっています。骨を折った直後駆け込んだ接骨院の紹介されたこの病院。小さいから直ぐくっつきますと言われギプス固定していたら先生の御言葉通り湾曲してくっ付き一生肘が曲がらないかもとなり別の病院へ転院。そこの先生がすわ一大事!と再度くっついた骨を砕いて固めて無事今の肘があります。入院期間をかなり伸ばしてくれたそんな病院。未だに疼く時はあります。医大首席の友人がインターンで此処に来たと聞いた時は世も末だと思いました。
その後西日本の名峰石鎚山へ。山に力があります。若い頃一人でドライブに来た時は山々の存在感に圧倒され引き返したこともあります(笑)雲一つなし。思いつきでスカイラインを目指したが為に全くガソリンスタンドが無く危うくガス欠でした。必ず満タンで臨みましょう。
下灘駅や時の大学加計学園を見てみたかったのですが山の運転と寒さに気力を削がれ帰る事に。ほんま何しにきたんだか(苦笑)
久しぶりに丸亀の一鶴で食事。美味い、美味すぎる。うどんなんて相手になりませんわ。一回でいいから10本ぐらい食べたい。
しかし実家でもそうですが田舎の笑えるぐらいの何もなさを目の前にすると自分が浮き彫りになるような気がするあの感覚が好きです。何も無いのは自分。何も無いようでいて何でもあるんでしょうね。原点も観たことで道着を着るのが待ち遠しくなりました。
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予定はないのでブラブラ住んで居た辺りと通学路を歩いてみました。住んで居た社宅は取り壊され浮いた感じのシャーメゾンに。
裏側。毎日塀からこの田圃にダイブし遊んだりショートカットしたり。高確率で主に見つかって怒られました。
毎日通った駄菓子屋は無くなりましたが前のかまど神社はそのまんま。
よく干上がってその都度鮒が大量死していた神社裏の池。息子は溜め池が珍しいので直ぐに寄って行きますが親目線になると相当危ない。田舎に危険は溢れていましたが危険と過干渉の間が難しいですね。
記憶の中の風景を残しながら変わった町並み。懐かしいやら寂しいやら。そらいつまでも昭和のままではいられませんけど記憶ってのは汚い町並みですら美しいもんです。
しかしゴーストタウンちゃうかってぐらい人がいません。懐かしい松山弁を聞きたかったのですが。強烈に印象に残っているのは『あおぢ』。
空手を始めた公民館。二階手前の部屋で算盤をしていると同時刻に隣りの部屋で空手をしていました。算盤行く度に目にするので興味は持っていましたが決め手になったのは組手していた上級生が蹴り飛ばされて積み上げてた長机の山に突っ込み雪崩に遭ったのですが、物ともせず机をどかして飛び掛かっていった姿を見たこと。算盤なんぞやってられるかと思ったのを憶えています。
小学校が見えました。この池は乃万八郎兵衛さんが掘ったんだったかな。池を見たら急に思い出しました。
卒業した小学校ではないのですが卒業した方より思い出深いのは初めてを沢山経験したからでしょうか。学校も道場もやたら北に縁があります。
通学路から逸れて空手教室の移転先へ。三年生時の途中から遠くなりました。普通に迷いました。
いやあ懐かしい。脳内では堀内孝雄氏の『時の流れに』がリピート再生されてます。この地が忘れ得ない場所となっているのは「初めて」が多かったからでしょうか。数歩毎に記憶が溢れて郷愁に耽ってしまいます。
が、私の過去など関係も興味もない妻がブーブー言って倦怠な現代へ呼び戻されるので歩くのは止めて市街地へ。息子は田舎の生い茂る草木を楽しんでいるので微笑ましいですが今度来る時は一人で来よう(苦笑)
途中とある神社にある公園に寄りました。名前は知りませんが松山に越してきて早々此処で左腕を粉砕骨折しました(笑)肘が反対に曲がった衝撃は中々なもんでした。なぜ鳥居に石が乗っているのか。不気味。
ありました。多分物は変わってますが濡れていたこれで滑って手を着いてバキっと。そう思ったら息子の鈍臭さを笑えないな。
息子の希望で坊っちゃん列車を見にきました。姫路城に行ったから城にはもう興味ないそうです。運良く続けてやってきました。息子ともう一人小さい子が先頭で駅に入ってくるのを待っていたら撮り鉄のオッサンが割り込んできて二人を遮り写真を撮り始めました。何という器の小ささか。思わずオイコラ撮り鉄邪魔やねんと言ってしまいました。おのれのうっすいうっすい頭頂部がフレームにインしとるやないけ、は留めました。
路面電車を堪能した次はみかんジュース。蛇口から出ます。但し100円。
そこから割と近くにある思い出の病院へ。随分綺麗になっています。骨を折った直後駆け込んだ接骨院の紹介されたこの病院。小さいから直ぐくっつきますと言われギプス固定していたら先生の御言葉通り湾曲してくっ付き一生肘が曲がらないかもとなり別の病院へ転院。そこの先生がすわ一大事!と再度くっついた骨を砕いて固めて無事今の肘があります。入院期間をかなり伸ばしてくれたそんな病院。未だに疼く時はあります。医大首席の友人がインターンで此処に来たと聞いた時は世も末だと思いました。
その後西日本の名峰石鎚山へ。山に力があります。若い頃一人でドライブに来た時は山々の存在感に圧倒され引き返したこともあります(笑)雲一つなし。思いつきでスカイラインを目指したが為に全くガソリンスタンドが無く危うくガス欠でした。必ず満タンで臨みましょう。
下灘駅や時の大学加計学園を見てみたかったのですが山の運転と寒さに気力を削がれ帰る事に。ほんま何しにきたんだか(苦笑)
久しぶりに丸亀の一鶴で食事。美味い、美味すぎる。うどんなんて相手になりませんわ。一回でいいから10本ぐらい食べたい。
しかし実家でもそうですが田舎の笑えるぐらいの何もなさを目の前にすると自分が浮き彫りになるような気がするあの感覚が好きです。何も無いのは自分。何も無いようでいて何でもあるんでしょうね。原点も観たことで道着を着るのが待ち遠しくなりました。
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