長いこと武道をしてゆく中で色々と考えも変遷して行きます。これからも変わっていくのでしょう。余程の事がない限り幹は変わらないと思いますが。
やはり一番変わったのは別に用もないのに戦いたくないと思うようになった事ですね。だって痛いもの。人間だもの。人数合わせ以外では試したい技が出来れば組手をします。
特に高校生の頃は腕試しがしたくて、学校から◯◯界隈でカツアゲが多発しているので近寄らないように、と御達しがあると「ええ事聞いた」と狩りに出掛けていたので卒業後にホーリーランドという漫画が始まった時はお前の話かと言われたりした程度に好きだったのですが。釣果はありませんでしたけどね。
やはり変わり始めたのは少年部に教え始めてからと、劇的に変わったのは昇段審査前に所謂伝統形を練習していた時でした。少年時代は糸東流でしたから懐かしさから幾度と繰り返す内に組手の為に形が作られた筈はないだろうと考え始め、武術とは?という方向に向かい始めます。
そして今はベストキッドの宮城先生宜しく、使わない為に稽古する、で落ち着いておりますが今となっては競技を逆説的に捉えて指導してますから長らく選手をしている人たちは何を想定し何を目指しているのだろうと思う訳です。
前回も述べた通り私は空手家を相手にする空手は教えられません。切りがないし何より対策練ったり日時が決まってたりするのは面白くない。恥ずかしながら私は長年何を想定しているかと言いますと「熊」です。野生動物と言った方がいいですかね。もっと言うと「予期せぬ動き」或いは「予期せぬ事態」という事になります。それは人間相手でも同じ。勝ちたいとか有名になりたいとか稼ぎたいとかそんな邪念の入る余地のない相手。
武をそのまま使う訳には行かぬ現代ですから何かそういう形で人格として生きれば。
宮平保先生という中国武術のスゴい人が居ます。その先生の動画を見ていると老子の話をされていました。「老子は『人は粘土を捏ねて壺を作るが実際使うのは空洞の部分である』と言っています。私は武術という形を練習するが実際使うのは空洞の部分。では空洞とは何かといえば武術を通じて得た考え方、哲学というものなのかなと思います」というような事を仰っていました。
そんな事を考えながら今一度喜屋武朝徳先生(チャンミーグヮー)の言葉を噛み締めると何と含蓄のある言葉かと感動致します。曰く、
空手道とは 長年修行して体得した空手の技が 生涯を通して無駄になれば 空手道修行の目的が達せられたと心得よ
続けていると色んなシガラミもありますが、それさえも肥やしにして少しでもこういった境地に近付きたいものです。
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