第一回~野崎晶子さまあて年賀状
新年おめでとうございます。よいお年をお迎えになりましたか。
昭和15年、私たちは最後の小学校5年生になりました。最後と言うのは、次の年から戦犯文相橋田邦彦氏の手で70年の歴史を持つ小学校の名は消され、「国民学校」になってしまったからです。東京市立(大森)入新井第4国民学校になったのです。
その頃、私の家は、母が持ち込んできた多額の借金に苦しんでいました。当時、父は小学校の先生をしていましたが、母の借金を払うと、月々の家計は決まって大層な赤字になってしまいます。そのため父も内職をしましたが、もともとが母に責任のある借金でしたので、母も昼夜兼行で内職に励みました。しかし普通の内職では、とても母の借金は返しきれません。
その時、助け船を出してくれたのが、母の長兄、黒沢秀雄の妻、鈴江さんです。鈴江おばさんは言いました。
「節子さんは、勉強ができるんだから、そんな割の悪い賃仕事なんかしてちゃだめよ。(書きかけ)
けれども月々の家計は、母の借金を教師だった父の給料では家計が大変な赤字