あい・みゆき「ふみ子抄」第57回
ボーヤを可愛がる新作の愛情は、異常と言ってもよいものだった。銭湯は、その一例だが、
毎週日曜の休日には、新作は一日中、ボーヤのそばにいた。朝少し遅めに起きて
朝食が済むと、間もなく、新作が、
「ボーヤ、天神様へ行こうか?」と言う。
ボーヤはそれを待っていて、部屋の中で父にしがみつく。
「これこれ、そんなことをしたら、パパは動けない」と、たしなめる新作。
やがて二人を長屋の小さな靴脱ぎ場から飛び出し、歩いて15分ほどの所にある
亀戸天神へ向かう.途中、角を曲がって、もう留守番のママからは見えない、という
ところまで来ると、ボーヤは新作の左手にぶら下がって甘える。
「これこれ、そんなことをしてはパパが歩けない」そういいながら新作は、腰を屈めて
ボーヤを地上におろす。それからは、新作は左手をボーヤの右手とつなぎ、右の手にもった
ステッキを軽く前後に振りながら、現在の明治通りを北へ進む。やがて右手に香取小学校が
見えてくるが、その手前の三叉路を左へ曲がる。すると間もなく天神様の門が右手に見えて
くる。
天神様の境内には大きな池がある。その池の奥に拝殿がある。池には木の橋がかかっている。
それが平らな橋ではなくて、半円形に真ん中が盛り上がっている。みなは太鼓橋と呼んでいる。
この太鼓橋を渡って拝殿につくと、パパが1銭玉をくれる。それをボーヤが賽銭箱に放り込む。
何かいいことがありますように、と祈ることもあるし、忘れて祈らないこともある。それよりもボヤには、その後で鯉に餌をやるのが楽しみなのである。餌はみそ汁などにも入れる”ㇷ”で、池の畔にある小屋で売ってくれる。一袋3銭で、おばあちゃんがにこにこしながら渡してくれる。それを持ってボーヤは池の傍に急ぐ。どうやら鯉たちは毎週日曜にくるボーヤを覚えているらしい。ボーヤが手をたたくと何十匹もの色とりどりの鯉が遠くの方からも集まってくる。それを待っていて
ボーヤが袋の中のㇷを一度にまいてやると、鯉たちは尾で水面を激しく叩きながら競争で餌を食べる。それが、あっという間である。パパの財布に余裕のある時は,ㇷを3袋くらい買ってくれる。
でもパパは貧乏だから、大抵は一袋である。パパは花が好きなので、帰りには境内に咲いている花を見て回る。特に春の5月ごろ、藤棚に薄紫の花の房がたくさん咲いているときは、見事である。(つづく)