国交正常化へ「執念」=中国通外交官、8年後に突破
【北京時事】戦後70年の日中関係史の観点で、1964年の「第三国極秘接触」を見た場合、スイスで中国武官に「両国関係を正常化しなければならない」と提案したのが、橋本恕氏であることは興味深い。橋本氏は8年後、外務省中国課長として国交正常化の立役者になったからだ。中国通外交官の一貫した執念が、その後の「突破口」を開いた側面が強い。
歴史・台湾・尖閣諸島など国家としての決断が求められた戦後日中関係は「結局、政治で決まった」(日本の元駐中国大使)。国交正常化前、「政経不可分」の原則に固執した中国政府が選んだのは政府間交渉ではなく、自民党の親中派国会議員らに接近することで時の政権に政治決断を迫ることだった。
一方、日中接近に反発する台湾は、自民党や外務省に圧力を加えた。中台双方とも政治レベルの解決を目指したわけであり、政治に翻弄(ほんろう)され、「外交一元化」からかけ離れた対中外交の現実が、日中の国交正常化を遅らせた。
こうした中、橋本氏は長く外務省中国課に在籍。政治家に深く食い込み、信頼を獲得した異色の中国通外交官だった。日中国交正常化実現の背景には、ソ連の脅威にどう対抗するか共通課題を抱えた米中の急接近など国際情勢の変化があったが、国交正常化を政治決断した田中角栄首相と大平正芳外相(共に当時)と、外交官としての橋本氏の信念が一致したことも大きな要因だった。
国交正常化のほか、駐中国大使として92年の天皇訪中も実現させた橋本氏は2014年4月、87歳で死去。生前、取材に対して72年の国交正常化に向け、「俺と角栄さん、俺と大平さんしか知らない。私を直接使った。雑音が入らなかったから(正常化が)できた」と語った。
橋本氏が64年に、スイスで行った極秘接触は、正常化への「伏線」とも言える。その際に中国側に述べた国交正常化提案や過去の侵略への謝罪は、同氏の両国関係打開への信念が一貫していることを示している。しかも橋本氏が提示した「政経分離は不可能」との認識は当時の日本政府の立場と異なるものだ。
ほぼ同時期、ビルマ(現ミャンマー)で日中大使接触を実現させたのも、中国通の若手外交官。外務省の指示ではなく、自身の判断で日中国交正常化に向けた機会を探ったものだった。 (2015/01/03-15:23)