goo blog サービス終了のお知らせ 

祖谷渓挽歌(いやだに・ばんか)~藍 友紀(あい・みゆき)著

「2007年自費出版文化賞」大賞受賞作品の紹介およびその周辺事情など。

1-3(2)日本と中国秘話

2015-01-03 22:25:05 | Weblog

国交正常化へ「執念」=中国通外交官、8年後に突破

<iframe id="aswift_0" style="position: absolute; left: 0px; top: 0px;" name="aswift_0" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" width="640" height="70"></iframe>
橋本恕・元駐中国大使

 【北京時事】戦後70年の日中関係史の観点で、1964年の「第三国極秘接触」を見た場合、スイスで中国武官に「両国関係を正常化しなければならない」と提案したのが、橋本恕氏であることは興味深い。橋本氏は8年後、外務省中国課長として国交正常化の立役者になったからだ。中国通外交官の一貫した執念が、その後の「突破口」を開いた側面が強い。
 歴史・台湾・尖閣諸島など国家としての決断が求められた戦後日中関係は「結局、政治で決まった」(日本の元駐中国大使)。国交正常化前、「政経不可分」の原則に固執した中国政府が選んだのは政府間交渉ではなく、自民党の親中派国会議員らに接近することで時の政権に政治決断を迫ることだった。
 一方、日中接近に反発する台湾は、自民党や外務省に圧力を加えた。中台双方とも政治レベルの解決を目指したわけであり、政治に翻弄(ほんろう)され、「外交一元化」からかけ離れた対中外交の現実が、日中の国交正常化を遅らせた。
 こうした中、橋本氏は長く外務省中国課に在籍。政治家に深く食い込み、信頼を獲得した異色の中国通外交官だった。日中国交正常化実現の背景には、ソ連の脅威にどう対抗するか共通課題を抱えた米中の急接近など国際情勢の変化があったが、国交正常化を政治決断した田中角栄首相と大平正芳外相(共に当時)と、外交官としての橋本氏の信念が一致したことも大きな要因だった。
 国交正常化のほか、駐中国大使として92年の天皇訪中も実現させた橋本氏は2014年4月、87歳で死去。生前、取材に対して72年の国交正常化に向け、「俺と角栄さん、俺と大平さんしか知らない。私を直接使った。雑音が入らなかったから(正常化が)できた」と語った。
 橋本氏が64年に、スイスで行った極秘接触は、正常化への「伏線」とも言える。その際に中国側に述べた国交正常化提案や過去の侵略への謝罪は、同氏の両国関係打開への信念が一貫していることを示している。しかも橋本氏が提示した「政経分離は不可能」との認識は当時の日本政府の立場と異なるものだ。
 ほぼ同時期、ビルマ(現ミャンマー)で日中大使接触を実現させたのも、中国通の若手外交官。外務省の指示ではなく、自身の判断で日中国交正常化に向けた機会を探ったものだった。 (2015/01/03-15:23)2015/01/03-15:23


 

1-3/日本は勿論世界の人々みんなが互いに助け合い幸せになるように。

2015-01-03 22:04:16 | Weblog

日中、国交正常化へ「極秘接触」=64年、スイス・ビルマ―中国外交文書で初判明

時事通信 1月3日(土)15時19分配信

  • <iframe src="http://i.yimg.jp/images/news/article/twitter.html?spid=2078709505&text=%E6%97%A5%E4%B8%AD%E3%80%81%E5%9B%BD%E4%BA%A4%E6%AD%A3%E5%B8%B8%E5%8C%96%E3%81%B8%E3%80%8C%E6%A5%B5%E7%A7%98%E6%8E%A5%E8%A7%A6%E3%80%8D%EF%BC%9D64%E5%B9%B4%E3%80%81%E3%82%B9%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%9E%E2%80%95%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E5%A4%96%E4%BA%A4%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%A7%E5%88%9D%E5%88%A4%E6%98%8E%EF%BC%88%E6%99%82%E4%BA%8B%E9%80%9A%E4%BF%A1%EF%BC%89%20-%20Y!%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B9&url=http%3A%2F%2Fheadlines.yahoo.co.jp%2Fhl%3Fa%3D20150103-00000027-jij-cn&pos=1" frameborder="0" marginwidth="0" marginheight="0" scrolling="no" width="115" height="20"></iframe>
  • <iframe style="height: 20px; width: 87px; visibility: visible; border-image: none;" title="fb:share_button Facebook Social Plugin" name="fbe55d5b324d54" src="http://www.facebook.com/plugins/share_button.php?app_id=276725822409153&channel=http%3A%2F%2Fstatic.ak.facebook.com%2Fconnect%2Fxd_arbiter%2F7r8gQb8MIqE.js%3Fversion%3D41%23cb%3Dfd67cd259fce17%26domain%3Dheadlines.yahoo.co.jp%26origin%3Dhttp%253A%252F%252Fheadlines.yahoo.co.jp%252Ff27f582b70cd5ce%26relation%3Dparent.parent&href=http%3A%2F%2Fheadlines.yahoo.co.jp%2Fhl%3Fa%3D20150103-00000027-jij-cn&layout=button_count&locale=ja_JP&sdk=joey" frameborder="0" scrolling="no" width="1000" height="1000"></iframe>

 【北京時事】日中両政府の国交正常化が実現していなかった1964年、スイスやビルマ(現ミャンマー)といった第三国で日本外交官が中国幹部と極秘裏に接触し、国交正常化の可能性を模索していたことが3日分かった。スイスに駐在して中国の武官と接触したのは、72年に外務省中国課長として田中角栄首相、大平正芳外相(いずれも当時)と共に国交正常化を実現させた橋本恕氏(後の駐中国大使、2014年4月に死去)。橋本氏は「日本は中国と友好であるべきで、両国関係を正常化しなければならない」と提案し、「中国を侵略し、非常に多くの中国人を殺したことをおわびする」と謝罪するなど踏み込んで発言した。
 時事通信が、両国外交官の接触について記録し、近年機密解除された中国外務省档案館(外交史料館)所蔵の外交文書の原文コピーを閲覧。50年を経て接触の事実が初めて判明した。
 ビルマ大使館から中国外務省に発信された電報によると、ラングーン(現ヤンゴン)では64年5月20日、小田部謙一大使が中国の耿飆大使(後の副首相・国防相)に自ら接触。「両国関係は緊密化し、特に経済分野では非常に発展している」と述べると、耿氏は「中日経済貿易関係の発展に伴い、さらに国交正常化を進めるべきだ」と強調。小田部氏も「関係は必ず正常化すると信じており、これは私の願望だ」と語った。
 当時ラングーンに書記官として駐在し、大使接触を実現させた中国通の元外交官(81)は取材に「日中国交正常化の何らかの機会になればいいと考えた。中国側も前向きの気持ちでいた」と証言。当時、国交のない国の外交官との接触は厳しく制限され、東京の外務省から事前に「了解」を得ていたが、訓令や指示はなかったという。
 在スイス大使館の書記官だった橋本氏は64年8月21日夜、ルーマニア大使館主催のレセプションで、中国の駐在武官と商務担当者に接近。中国大使館は、外務省宛て電報で橋本氏の態度を「友好的」と評価。橋本氏は10月13日、電話で武官夫妻と商務担当者を自宅での夕食に招待した。中国大使館側が本国の外務省に出席していいかどうか尋ねたところ、同省は「外交官間の身分と職務を考慮して武官は口実を付けて断る」よう指示し、商務担当者だけが「私的接触」で出席することを許した。
 国交正常化前の第三国接触としては佐藤栄作政権後期の71年1~2月、日本側が仏政府の仲介によりパリで模索し、中国側が接触を拒否したケースが知られる。この際も橋本氏が中国課長として主導しており、中国通外交官の一貫した執念が国交正常化につながった形だ。 

最終更新:1月3日(土)19時50分