妙覚寺ニュース

広島妙覚寺の毎月のニュースを写真入りで紹介します。

6月28日(水)寺族婦人会研修旅行2日目

2017年06月28日 | 佐伯沖組

国の重要文化財 旧金毘羅大芝居「金丸座」へと向かいます。

現存する日本最古の芝居小屋です。

旧金毘羅大芝居は、天保6年(1835)に建てられた現存する日本最古の芝居小屋です。

江戸時代より「讃岐のこんぴらさん」として親しまれ、庶民信仰のメッカとしてお伊勢参りとともに、全国から多くの参詣客で町は賑わいをみせていました。旅人は長い石段を登り「こんぴらさん」に参詣し、長旅の疲れを旅籠(旅館)で癒しました。

そんなこんぴら詣での楽しみの一つとして、年に3回(3月・6月・10月)、町には市が立ち、芝居、相撲、軽業、操り人形などの興行が仮設小屋が開かれました。特に芝居見物は最大の楽しみであったのに違いありません。当時「金毘羅大芝居」の名は全国に知られ、東西の千両役者がこぞって「金毘羅大芝居」のひのき舞台を踏んだといわれます。

 

木札をわたす札場です。入り口は小さくて、身をかがめて1人ずつ通るようになっていました。

履物を預ける下足場。木の下足札を受け取り、中に入ります。草履を引っ掛けるようになっています。

江戸時代より現代に至るまで風雨に耐え火災にもあうことなく、奇跡的に残った最古の劇場「金毘羅大芝居」を後世に残すため、多くの人々により保存運動が始まります。その活動はさらに広がりをみせ、国内外の建築、演劇に携わる専門家も加わり、芝居小屋を訪れ専門的な調査も行われました。やがて人々の願いは国に届くこととなり、歴史的、文化的価値が認められ、昭和45年6月17日「金毘羅大芝居」として国の重要文化財に指定されます。

そして、昭和47年より、4年の歳月をかけ、昭和51年に現在の愛宕山中腹に移築復元され、天保の時代そのままの姿に甦ったのです。

「四国こんぴら歌舞伎大芝居」の復活により、全国から熱い注目を浴び、四国路の春を告げる風物詩として昭和60年から毎年「こんぴら歌舞伎」が行われています。

ブドウ棚の役目は、歌舞伎の演目の中で役者の動きにあわせて裏方がブドウ棚の上を歩きながら客席に紙吹雪などを降らし、天井から物(ちょうちん・暗幕など)を吊るすことにも使われます。使われている竹は香川県産で、復元に使用した本数は約500本、1桝25cm角に統一し、荒縄でくくり上げ、それを丸太の上に置いています。

昔は一桝に4人だったそうですが、今は二桝に5人席となっているそうです。

東桟敷は、1階が八間2階が九間あります。

西桟敷は、1階が七間2階が九間あります。中でも2階西桟敷の第四間はほかの場所より広くなっており、特別の貴人席として使用されていました。

花道に空井戸(からいど)とスッポンがありました。空井戸とは、舞台と花道の付け根に構えた半間四方の空枠です。スッポンとは、花道の七三(舞台から三分、揚幕から七分の位置)の位置にある小さな〝セリ〟(0.8m)×(0.6m)という切り穴のことです。旧金毘羅大芝居では人力で上下に動かします。スッポンという呼び方はせり上がってくる役者が、スッポンが首を出す様子を連想させるところから付けられたものだといわれています。主に幽霊、妖怪、妖術使いなどが登場する時に使用されます。

花道を通って、ステージに出ました。回り舞台になっています。

2階席です。舞台全体が見渡せていいお席ですね。

2階の廊下です!

このようにして風をいれます。

2階の楽屋です。

いろんな楽屋がありました。

桶のお風呂です。

(奈落)

地下の回り舞台の回転ゴマです。人力です。2トンあるそうです!

濡れ縁(通路)1階東西の中庭にあります。

 

 

金丸座を後に、表参道に降ります。

表参道には楽しいお店がたくさんありました。

創作縮緬(ちりめん)お店です。

 かえるや朝顔がかわいいですね。

はぎれで作った小物がいっぱいです。デイサービスの工作に参考にならないかと見て回りました。

 手作りお雛様や干支飾りなどなど。楽しい空間です。

今治市のタオル美術館へ行きました。

こちらも楽しいそうです。

お昼は、ヨーロピアン庭園を眺めながら優雅にお食事!

ランチは王府井(ワンフーチン)の北京コースでした。

タオル工場見学ブース

最新鋭の高速自動機器による製造の過程がわかります

常設展ムーミンの世界へ

俣野敦子タオルアートコレクション

タオルコレクションのショップでお買い物

 またのあつこさんのハンカチを買いました。

ねこハンカチがかわいいですね。

1階のマルシェです。

 

イワミツアーさんのバスです。

来島海峡です。

来島海峡大橋です。大島と今治間の海の難所・来島海峡に架かる世界初の三連吊橋です。

 

 

瀬戸田の平山郁夫美術館へ行きました。

和風の素敵な美術館でした。

平山先生の作品では、薬師寺の玄奘三蔵院伽藍『大唐西域壁画』が印象に残っています!「7場面・13壁面」の超大作です。

美術館までのアプローチがすてきです。

落ち着いていて、いい雰囲気です。

ロビーも和風で素敵

お庭も見えて素敵

 ロビーで記念の一枚。

生口大橋を渡ります。因島と生口島を結ぶ斜張橋。スレンダーな主桁が優美です。

美しい島の風景です

尾道が見えます。

新尾道大橋を渡ると、尾道です

しまなみ海道の橋を全部渡りました。昨日は、倉敷から坂出まで瀬戸大橋を渡り、先週は、明石海峡大橋を渡り、先月は、京都の帰りに明石海峡大橋と大鳴門橋を渡りましたので、本州四国連絡橋は全部渡ったことになります

最後の橋、新尾道大橋を渡りました。六時過ぎに宇品港に到着しました。みなさんお疲れさまでした

 


6月27日(火)寺族婦人会研修旅行

2017年06月28日 | 佐伯沖組

6月27日(火)佐伯沖組寺族婦人研修旅行に参加しました

8:10イワミツアーのバスに乗って、広島港出発

瀬戸大橋を渡りました

イワミツアーさんのサロンバス

坂出に渡って、丸亀市の本願寺塩谷別院にお参りしました

 

塩屋別院の創建は1615年(慶長20)に播州赤穂から製塩業を営む門徒30戸が移り住んだことにはじまる。この時、ともに移転した道場が塩屋別院の前身となった。

当時、この土地を統治していたのは、生駒正俊だった。生駒氏は初代親正が1587年(天正15)に豊臣秀吉から讃岐一国を与えられて以来、4代54年にわたりこの地を治め、高松城築城や城下の整備を行った。初代親正は元播州赤穂の城主で、3代目となる正俊の時、人々が移住して赤穂の製塩法をもたらしたのもこの縁によるといわれている。

讃岐は雨量が少なく、頻繁に干ばつに見舞われ、米作には不向きな土地柄だったが、瀬戸内の豊かで広い遠浅の沿岸に恵まれ、製塩にとっては非常に良とされた気候であった。やがて綿・砂糖とともに讃岐三白としてこの地の経済を支えた。 

赤穂から移住した門徒たちは、塩田の住まい近くに新しい道場を建てた。境内を囲む石積はその頃廃城となった丸亀城の残石を使用したともいわれている。1643年(寛永20)12月7日、本山から木仏と「教法寺」の寺号を許された。

 

1734年に、 藩の承認を得て別院(御坊)となる。

本願寺塩屋別院は丸亀市の西部の塩屋町に位置し、塩屋の御坊(ごぼう)として親しまれています

本日は10名が参加いたしました。

お参りのあと、お話しを聞き、本堂を見学しました。

左手に教務所があります。

 納涼会、吉本興業が出演されるんですね。楽しそうです

門の彫り物は、中国の故事によるものです

お昼は、丸亀市の中津万象園でいただきました。

貞享5年(1688年)丸亀二代目藩主京極高豊候により、ここ中津の海浜に中津別館として築庭されました。

時間がなくて、お庭も美術館も見学できませんでした。残念

うどん会席です

素敵なお庭が見えて幸せでした

讃岐の妙好人庄松同行のお寺勝覚寺さんに参拝致しました。

 

檀那寺である勝覚寺の第20世住職融海和上は学徳に優れた僧で後に本山興正寺の執事として活躍したが、寺男としての庄松を時には吾が子のように可愛がった。檀家の仏事には寺を出発して檀家に着くまでの道のり三部経典を口ずさんでいく和上の後に、お経や衣を包んだ荷物を担いで歩く庄松にとっては、こよなく有り難い仏縁の場となっていたのでしょう。

 

若院さんが、庄松同行のお話しをしてくださいました。

「遠慮に及ばぬ」

この絵がいいですね

「兄貴覚悟はよいか」

「石の下には居らぬ」

「家に一つのお文」

「お前たちの堕ちてゆく姿」

庫裏でお茶をいただきました。

ゆっくりとお茶をいただき、ありがたいことでした

しっとりとしたお庭です

庄松同行像です

勝覚寺さんの境内です

今日の宿泊は琴平リバーサイドホテルです

琴平の街並みです

表参道筋を散策しました

木彫りのお店に入ってみました

木彫りのおもちゃや小物がかわいいですね

沢山あって、楽しいお店でした 箸置きを買って帰りました。小物にサービスで名前を入れて下さいます

時間を忘れてしまいますね

鳥居の向こうが琴平駅です

夕食は紅梅亭でいただきました

素敵なロビーです

綺麗なお庭がみえます

 会席料理をいただきました。

夕食後、温泉につかりました。ひとりでゆったりとつかることが出来、最高でした 薔薇の花風呂、露天風呂なども楽しめました