明源寺ブログ

浄土真宗本願寺派

員弁組門徒推進員会20周年記念行事、上越北信の聖人遺跡を訪ねて・・4

2012-10-21 00:11:07 | Weblog
今から振り返ってみれば、親鸞聖人の越後流罪があってこそ浄土真宗は誕生したともいえます。それを、宗教哲学者である梅原猛先生は、「霊性の国越後」と表現されました。聖人が、上陸後最初に参拝されたという伝説を持つ居多神社前の駐車場には大きな看板があります。今回の研修にて、目にされた方もおられるのではと思います。でも、通り過ぎた人の方が圧倒的。声をかけて説明しようとも思ったのですが、時間が気になり止めました。そこでブログにて紹介します。

梅原先生は、「親鸞の著作『教行信証』にふれ、35歳から42歳までの越後での生活が親鸞の思索を深め、独自の教説を創出したのであろうと述べています。越後は、縄文時代以来「霊性の国」であり、親鸞が宗教的な霊性に目覚め、さらに熟成させ開花させた地だと記しています。」と看板に書かれています。
「霊性」とは、「超自然的存在との見えないつながりを感じることに基づく、思想や実践の総称」です。ですから、その土地・風土・環境が作り出すものです。それは、越後の雪を抜きにしては考えられないでしょう。当時は、半年近く雪に埋もれる豪雪地帯です。厳しい自然のなかでしか生まれない言葉・感覚、それが「霊性の国」越後という言葉です。このように考えると、やはり実際に現地を歩かない事には何も始まらないという事に気がつく筈なのです。ここに、今回の研修には大きな意味・意義があると思うのです。皆さんは、何を感じられたのでしょうか?
居多ヶ浜から、親鸞聖人最初の草庵である「竹ノ内草庵」に向かいました。聖人は、ここで1年間の生活をおくられました。居多ヶ浜からバスでの移動は3分、そして徒歩5分の距離です。

現在、「竹ノ内草庵」は五智国分寺の境内地にあります。写真は、五智国分寺の仁王門。

中央に「五智国分寺本堂」と右手に「竹ノ内草庵」の屋根が見えます。

五智国分寺の本堂は、新しい本堂です。昭和61年1月16日の夜半に出火で全焼し、平成9年10月5日に再建されたばかりの本堂です。過去にも度々出火し、その度ごとに再建されてきました。1792年にも出火しており、その際に五智如来の一つである薬師如来像を担ぎ出した「近藤よつ」さんの話を紹介しましょう。地元藤原町でも忘れられた実話です。「近藤よつ」さんは、親鸞聖人のご旧跡を参拝するために、はるばる伊勢国員弁郡本郷村から越後上越まで来られました。現在とは違い、当時は全て徒歩。しかも、命がけ。そして、檀家寺の住職が発行する「往来一冊」と呼ぶパスポートが必要でした。
今の現存する「近藤よつ」さんの「往来一札」には、次のように書かれています。
円琳寺門徒 近藤よつ
 この女、代々浄土真宗当寺檀那に紛れ御座無候。いずかたにても万一病死等仕り候はば、その住所のご作法によって、御取置下され度御頼み申候。よって一礼くだんのごとし。
                           東本願寺浄土真宗 円琳寺
  寛政4年子閏2月
国々御役所
右の者親鸞聖人御旧跡、届出に依りて聞仕り相違無き旨記し候
この「往来一札」は、「近藤よつ」が浄土真宗の円琳寺門徒である事、旅の目的が越後の親鸞旧跡の参拝である事が明記されています。そして、旅の途中でどのような事があろうとも、その土地の習慣により処置して欲しいとの事が書かれています。当時の旅の厳しさを見る思いです。親鸞聖人のご苦労を偲ぶためには、いのちを捨ててもかまわないという当時の熱烈な念仏者の姿が浮かび上がってくるのです。郷里に、このような念仏者がおられた事を誇りに思います。そして、『歎異抄第2章』の冒頭の場面を見る思いでもあります。「おのおの十余箇国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし、ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがためなり。」とあり、おのれのいのちをかけて十余箇国を超え、京都におられる親鸞聖人を訪ねた人々と、そのこころは同一なのです。
この「近藤よつ」さん、五智国分寺の大火事に偶然立ち合う事になったのです。配流の地である新潟県上越市にて、親鸞最初の住居となった「竹の内の草庵」を参拝中の事、隣の五智国分寺が大火事となのです。驚いた「近藤よつ」は火の中に飛び込み、五智如来の中で薬師如来を背負って運び出したと云います。この事が評判となり、寛政5年(1793)に東本願寺から阿弥陀如来像が下付されたと伝えています。今後、上越の聖人ご旧跡をお参りされる方は是非とも覚えておいて欲しい物語なのです。
続く・・・