「トキワ荘物語」 2回目は、みんなの兄貴分 寺田 ヒロオ 氏の巻です。
寺田 ヒロオ氏については、はてなダイアリーから引用させて頂きます。
漫画家。
1926~1992 新潟県出身。
トキワ荘の実質的なまとめ役。愛称、テラさん。
各種回想では随分大人に思えるが、藤子不二雄と3歳しか年は違わなかった。(ちなみに、手塚治虫も、テラさんより3歳年長であるのみ)
電電公社時代都市対抗でピッチャーを務める。また、中村八大は義兄にあたる。
30年代半ばで少年漫画の筆を折る。晩年は雑誌「漫画少年」の書誌をまとめた「漫画少年史」を自費出版した。
■主な作品
スポーツマン金太郎
COM 1969年、11月号 寺田 ヒロオ 手塚 治虫先生から新漫画党まで と題して、表紙の絵は手塚先生が親鳥、寺田氏がひよこになって手塚氏の上に乗っており、藤子、石森、赤塚の各氏のひよこが卵のカラをかぶってカラから出ようとしている図が描かれています。
ぼくが東京椎名町のトキワ荘アパートへはいったのは (三輪自動車の荷台に引越し荷物の絵) 師走の風も冷たい昭和28年の大晦日のことだった。
初めてかかげた紙切れの表札 (ぺたり)
机と布団しかない四畳半だが、とにかく 「おれの城」 だ!
当時二十一歳まだ太ってはいなかった。向かいの部屋は 手塚 治虫先生。だが宝塚のおうちに帰っておられ、お目にかかったのは1ヶ月後
仕事は 「漫画少年」 だけ、一コマや四コマのマンガを描いてはせっせと通う。急ぎのカットの仕事を貰い徹夜で描く、と真面目な性格で知られた寺田氏の仕事振りや、収入がまだ少なく、野菜をひとつ買っては色々に料理してそればかり食べている様子など描かれている。
かと思えば向かいの手塚先生の部屋の賑わい (原稿待ちの編集者がわんさわんさ) を見て、かくも差があるものかと激しい劣等感にさいなまれたり。
ある日、「少年クラブ」 の人が来て、ついにオレも認められる日が来たかと思ったら・・・。
「手塚先生はお留守ですか ?」 「知りません」 「手塚先生はどこへお出かけですか ?」 「知りません」
そんなことが続くと
「おれは手塚先生の門番じゃないぞう !!」
昭和29年、藤子不二雄、坂本三郎、森安直哉、永田竹丸らと新漫画党を結成する。その後メンバーも変わったが、 (鈴木伸一、つのだじろう、石森章太郎、赤塚不二夫、園山俊二ら) 手塚先生が他のアパートへ移転されると、すぐに藤子がそこへ越してきた。石森も赤塚もトキワ荘に入った。会合に便利と思ったが・・・。それぞれが売れっ子になってくると、またぞろ彼等の留守番やら伝言係りやら、書類の受け渡しを頼まれたり・・・一難去って又一難の有様。
「おれは新漫画党の門番じゃないぞう !!」 と叫んで、昭和32年6月20日にトキワ荘を出た。
という顛末が描かれています。ぷぷぷっ、この回は、まとまりがあって、オチも付き、当時の状況が良く判り、大変好感の持てる一遍です。描き手の真面目さがそのまま出ています。
次回は、藤子 不二雄氏の巻です。
トキワ荘が建っていた頃の地図など凄く詳しい案内を見つけました。↓ こちらのHPは、テーマを決めてその地区を歩いて、詳しい案内を何十も作製しているHPさんです。
「東京紅團 トキワ荘物語」
寺田 ヒロオ氏については、はてなダイアリーから引用させて頂きます。
漫画家。
1926~1992 新潟県出身。
トキワ荘の実質的なまとめ役。愛称、テラさん。
各種回想では随分大人に思えるが、藤子不二雄と3歳しか年は違わなかった。(ちなみに、手塚治虫も、テラさんより3歳年長であるのみ)
電電公社時代都市対抗でピッチャーを務める。また、中村八大は義兄にあたる。
30年代半ばで少年漫画の筆を折る。晩年は雑誌「漫画少年」の書誌をまとめた「漫画少年史」を自費出版した。
■主な作品
スポーツマン金太郎
COM 1969年、11月号 寺田 ヒロオ 手塚 治虫先生から新漫画党まで と題して、表紙の絵は手塚先生が親鳥、寺田氏がひよこになって手塚氏の上に乗っており、藤子、石森、赤塚の各氏のひよこが卵のカラをかぶってカラから出ようとしている図が描かれています。
ぼくが東京椎名町のトキワ荘アパートへはいったのは (三輪自動車の荷台に引越し荷物の絵) 師走の風も冷たい昭和28年の大晦日のことだった。
初めてかかげた紙切れの表札 (ぺたり)
机と布団しかない四畳半だが、とにかく 「おれの城」 だ!
当時二十一歳まだ太ってはいなかった。向かいの部屋は 手塚 治虫先生。だが宝塚のおうちに帰っておられ、お目にかかったのは1ヶ月後
仕事は 「漫画少年」 だけ、一コマや四コマのマンガを描いてはせっせと通う。急ぎのカットの仕事を貰い徹夜で描く、と真面目な性格で知られた寺田氏の仕事振りや、収入がまだ少なく、野菜をひとつ買っては色々に料理してそればかり食べている様子など描かれている。
かと思えば向かいの手塚先生の部屋の賑わい (原稿待ちの編集者がわんさわんさ) を見て、かくも差があるものかと激しい劣等感にさいなまれたり。
ある日、「少年クラブ」 の人が来て、ついにオレも認められる日が来たかと思ったら・・・。
「手塚先生はお留守ですか ?」 「知りません」 「手塚先生はどこへお出かけですか ?」 「知りません」
そんなことが続くと
「おれは手塚先生の門番じゃないぞう !!」
昭和29年、藤子不二雄、坂本三郎、森安直哉、永田竹丸らと新漫画党を結成する。その後メンバーも変わったが、 (鈴木伸一、つのだじろう、石森章太郎、赤塚不二夫、園山俊二ら) 手塚先生が他のアパートへ移転されると、すぐに藤子がそこへ越してきた。石森も赤塚もトキワ荘に入った。会合に便利と思ったが・・・。それぞれが売れっ子になってくると、またぞろ彼等の留守番やら伝言係りやら、書類の受け渡しを頼まれたり・・・一難去って又一難の有様。
「おれは新漫画党の門番じゃないぞう !!」 と叫んで、昭和32年6月20日にトキワ荘を出た。
という顛末が描かれています。ぷぷぷっ、この回は、まとまりがあって、オチも付き、当時の状況が良く判り、大変好感の持てる一遍です。描き手の真面目さがそのまま出ています。
次回は、藤子 不二雄氏の巻です。
トキワ荘が建っていた頃の地図など凄く詳しい案内を見つけました。↓ こちらのHPは、テーマを決めてその地区を歩いて、詳しい案内を何十も作製しているHPさんです。
「東京紅團 トキワ荘物語」
COMにはまっていた頃、興味半分で買ったような気がします
なので、中身は全く覚えてません
途中で投稿されてしまった
では、続きから。。。
確か、ほのぼの系まんがだったな~
寺田さんの作品て、これしか聞いたこと無いです
エンターテイメントに徹し切れなくて、売れなかったと聞きました
今、どうされているんでしょうね。。。?
私が読んだ事あるのも、「スポーツマン金太郎」 と 「背番号0ゼロ」 しか覚えていません。「スポーツマン金太郎」は、ほんとにあの金太郎の格好をした子供が熊にまたがって山から下りてきて、スポーツ万能で活躍するとか言うお話でした。「背番号0ゼロ」 は、やっぱり子供が巨人軍に入って活躍するというお話だったような。
1992年9月24日に亡くなられています。晩年は世間との接触も拒んでいたという事ですが、他界する1年前にトキワ荘の仲間を自宅に呼んで宴会をして、「もう思い残す事は無い」と家族に語ったとか。
真面目すぎた方のように思います。合掌。
が…、あんまり覚えて居ないのだナ~これが。
藤子コンビのどちらかが「マンガ道」で
トキワ荘のコトを書いてますよね…(確か…)
こちらは連載されていたビックコミックを買っていたので
ほぼ、読んでいマース!
テラさんが皆さんの伝言役をしていて
ふてくされたシーンは記憶にあります(笑)
マンガではテラさんって、かなり年上かと思ってました。
3歳位の差では…確かにふてくされるのも解るナ
ところで、「ムシ師」読み終わりました(笑)
ので、前記アドレスに住所・電話番号・お名前を明記の上
連絡下さい。宅急便で送付いたします!
夢の碑の上下はまだ読んでないです。
そちらは後日ということで…(ハハハハ)
それでは、お願いしまーす!
にかなり受けましたw
めっちゃ切ないシュールな話ですね~ww
ところで、プロフィールの絵はトミーさんですか!?どなたがお描きに!?
美人さんです~(ノ´∀`*)
手塚治虫→(3歳年下)寺田 ヒロオ→(3歳年下)藤子不二雄の関係ってのを
初めて知りました!。マンガでは後輩の皆んなに追い抜かれてしまいましたが、
その真面目な性格から皆んなに慕われた兄貴分、寺田 ヒロオさん、
漫画の筆を折ってから「漫画少年史」を自費出版したお話や他界する1年前に
トキワ荘の仲間を自宅に呼んで宴会をして、「もう思い残す事は無い」と家族に
語ったお話とかにお人柄が偲ばれて(じ~ん♪)となります。
昨日かな、メール出したのですが、届いていないかな。調べますね。「夢の碑の上下」 風恋記 は、コミックス版を買いましたので、大大丈夫です。満天さんが買ったのは大判の豪華版だから、あんまり人に貸さない方がいいかもですよ (自分は蟲師借りるつもりなのに・・。)
はい、写真替えたのですが、自画像です。ただし、30年以上前の若かり~し頃ですから、今の姿は想像しないで下さいませ。(苦笑)
一番面倒見が良くてみんなに慕われた方のようですが、中年及び晩年はあまり恵まれなかったようですね。最後の宴会の話、いい話というか、心境を考えると複雑です。長いこと生きられないと分かっていたのでしょうか。