比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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黄葉の落葉松の林を出たり入ったりして・・・浅間嶺を見る

2010-11-18 | 信濃の国は 上田・佐久・東信濃
11月13日、黄葉の浅間山麓に遊山に行きました。

からまつの林を出でて・・・
北原白秋が信州に旅して「落葉松」を詩作したのは1921年。この林の下の星野、塩壺あたりを逍遥してといわれています。



       からまつの林を出でて
       浅間嶺にけぶり立つ見つ
       浅間嶺にけぶり立つ見つ 
       からまつのまたそのうへに


中軽井沢・・・長倉の鶴溜の山中、海抜約1100m地点から湯川の谷、そして浅間山。
今日は浅間嶺に煙は立っていません。


中軽井沢から草津方面に向う谷、浅間山の裾野が広がっています。このへん一帯は奈良朝から平安朝のころ長倉牧といわれたところ。官営牧場です。江戸時代は沓掛村といわれ中山道の沓掛宿(長谷川伸の戯曲「沓掛時次郎」が有名ですね)で栄え、明治の大合併で長倉村に。さらに軽井沢村を合併して東長倉村に、1923年軽井沢が有名になり軽井沢町になり、いつのまにか沓掛が中軽井沢になっていました(知らなかったのは私だけですが)。歴史の重みのある由緒ある地名が「もどき」に変わっていきます。

沓掛宿・・・中山道、北国街道、草津道、甲州往還など交通の要衝として大いに栄えましたが1983年(明治16年)の上野から鉄道の開設が始まり1993年横川・軽井沢間がつながり信越線全開通をもって人と物の流れの要としての宿場町の役目を終わり静かな農村に戻っていきました。つまり本陣、脇本陣、数十軒の旅籠のご主人、従業員、宿場業務・駅逓業務(運送、通信)にかかわる人たちはすべて失業です(もちろん全国すべての宿場は同じ運命をたどります)。やがて西武王国の創始者堤康次郎が鞄の中に札束を詰め込んで(中身は新聞紙に紙幣を重ね見せ金にしたといわれる)長倉村の千ヶ滝あたりの土地を買い漁りだしたのは1915年のころからといわれます。

いろいろありましたが浅間山だけは今日も変わらぬ姿を見せています。


3枚目の浅間山の大眺望は山中で出逢ったデジスコを担いだ地元の探鳥さんに連れて行ってもらったビュースポットです。今日は空気中の水分が多くて山の写真は靄ってしまいます。2枚目の写真は画像修整で無理やりくっきりさせたものです。


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