比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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秋の秩父路・・・吉田の万葉歌碑で・・・防人の歌を見た

2010-11-21 | 道をゆく 秩父路
                       、
11月19日、ぶらり秩父、物見遊山。
峠に囲まれた秩父吉田町、むかしは上州・信州に通じる交通の要、江戸時代は定期的な市も立ったほど栄えた町だったそうです。
そんな秩父吉田に万葉碑が2基あります。1805年建立のもの。そして風化の激しさのため1995年再建したもの。

さて再建された万葉碑の立つ秩父市立吉田小学校にやって来ました。
学校の事務室に伺い訪問理由を述べて訪問者名簿に名前を記してから校庭の一隅にある万葉碑の前に立ちました。


小学校の万葉碑は190年前のものに模して1995年再建のもの。元はここにむかしむかし風食で崩れ落ちた万葉碑が立っていたそうです。1805年それを嘆いて清泉寺住職梅林和尚が前のものを模して再建、その碑も風食が激しくなったので吉田歴史民俗資料館(廃館)に移し再建したというわけです。つまり万葉碑は1805年以前にもっと古いものがあったようです。

防人(さきもり)とは・・・正式に書けば先守(さきもり)・・・飛鳥時代から平安朝にかけて朝鮮半島、東シナ海からの外敵に備えて九州の沿岸に配置された防衛隊のことです。農民からの徴兵(軍役)で、食料、旅費、武具は自弁といわれます。実際には攻撃らしいものはなく平安朝の中期に消滅してしまいました。

さて万葉碑・・・万葉集・・・防人の歌です。です。二首あります。万葉仮名という字で書かれています。漢音の当て字です。読めないことはありませんので原文を記しました。クイズみたいで読むのも楽しいです。読み方は碑の横のアンチョコからです。



   武蔵禰能 乎美禰見可久志 和須礼遊久   武蔵嶺の 小峯み隠し 忘れ行く
   儀美我名可気氐 安乎禰思奈久流       君が名懸けて 吾を音し泣くる

   於保儀美乃 美己等可之古美 宇都久之気  大君の 命畏み 美しき
   麻古我氐波奈利之 之麻豆多比由久      真子が手離り 島伝い行く

   右一首 助丁 秩父郡大伴部小歳

武蔵・・・というのと最後の1行は万葉仮名ではありません。
右一首となっていますから、後の一首が大伴部小歳(おおともべおとし)という防人・・・助丁とは隊長補佐ぐらいの役職か。「大君の 命畏み 美しき」は「慣用句」みたいなものだそうです。天皇制云々とかそういう問題を考えないでください。そのとうじ武蔵の人は大君のことを豪族の親方ぐらいに考えていたのではないでしょうか。前の一首は女歌・・・奥さんの歌らしいですね。
歌の意味はそれぞれ考えてください。
大伴部とは飛鳥時代のころの大伴氏の一族のこと。部とは豪族に繫がる人たちです。大伴部、物部、蘇我部、日下部なんていいます。秩父にも大伴一族がいたのですね。

さて吉田小学校から吉田の町を俯瞰しました。

吉田の街並み。造り酒屋さん。道の反対側に旧武毛銀行の建物(国登録有形文化財)があります

吉田町歴史民俗資料館(旧吉田町役場)です。現在は廃館のようです。
館内の左側に1805年の万葉碑(小学校より移転)がありますが門扉に鍵がかかっていて近寄れませんでした。


むかし栄えた古い古い町です。数100年前から秩父人が詠んだ防人の歌を顕彰してこのような立派な碑を造っていたことは、この土地の人の文化度の高さ、心の豊かさを感じます。

この稿は、吉田出身のコメントフレンド「縄文人」さんのむかしのコメントで想を貯めていたのがようやく実現したものです。

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