比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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長崎の旅・・・平戸・・・城と教会とお寺と南蛮貿易発祥の島

2006-09-25 | 道を行く 九州の諸道
長崎から島原、島原・天草の乱原城を訪ねてから平戸に向かいました。予算の関係で忙しいのです。諫早に出て高速で武雄JC,佐世保に出ます。ハウステンボスには行きません。私はレンタカーのナビに相性が合わない(ナビのオシャベリがうっとうしい)のでもっぱら地図を頭に入れながらの走行です。平戸には夕方到着。


すこし小雨ですが朝の散歩をかねて坂道を歩きました。お寺と教会が隣り合わせる不思議な風景です。アンマッチのバランス?
後の尖塔はザビエル記念聖堂。お寺は平戸藩の禁切支丹のゼスチァーか。
横浜といい長崎といい、ここ平戸も坂が多い。ここの人は足が丈夫になるだろうなあ。

ザビエル記念聖堂

丘の上から港町、その向こうに肥前平戸藩6万石の松浦氏(まつらし)の城が見えます。大きな城ではありません。
ここは平戸大橋ができるまでは完全な離島です。
海から攻めるのはたいへんです。お屋敷みたいなもので十分だったはずです。殿様のミエでしょうか。

平戸は南蛮貿易発祥の地です。1543年種子島にポルトガル船が漂着、1549年ザビエル鹿児島に上陸、1550年には平戸にポルトガル船が入港。オランダ船も英国船もスペイン船もぞくぞく入港。まさに南蛮貿易の夜明けです。同時にやって来た宣教師たちはイエズズ会というローマ教皇お墨付きの布教軍団の尖兵ですから何でもやります。時は室町時代末期から戦国時代。多くの大名が南蛮貿易の利権目当てに入信(フリ?)します。なかには長崎港をポルトガルに寄進してしまう大名もいます。ポルトガルのほうは植民地一丁上がりと思ってたでしょう。宗教と貿易がセットです。宣教師のほうもポルトガル商館と組んで鉄砲、火薬まで斡旋します。信者が増えれば何でもアリ。まるで死の商人です。
1600年代、徳川の世に入ると商教分離のオランダ商館側の独占契約になり長崎に貿易港が移ります。ポルトガル商館は出入り禁止。切支丹は禁教(1612年)。鎖国(1635年)になります。ここ平戸は元の静かな港町になったようです。
切支丹大名の多くはサッサと改教し逆に弾圧する側に回ります。ワリを食ったのはほんとうに切支丹になっちゃった人たち。キリシタンの弾圧の歴史が始まります。

この話はつづきます。

平戸では「焼きアゴの干物」を買いました。タダの煮干といったら身も蓋もありません。魚屋のおばさんは自分の家ではアゴの粉を使ってるといってました。ガクッ!


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