比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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関東平野を開いた伊奈家の菩提寺・・・鴻巣市の勝願寺

2010-02-19 | 古墳・遺跡・石塔婆
江戸時代の関東郡代伊奈家を追って伊奈町の小室陣屋から伊奈家の菩提寺・・・武州鴻巣の天照山勝願寺に来ました。
浄土宗関東十八檀林の一つ。1252年別の地に開基、1573年現在の地に中興。徳川家康の鷹狩の際の御休処・御成処となり栄えた。1884年大火により消失、本堂は1893年、仁王門は1920年再建。

仁王門をくぐると本堂

斜め後ろから見た伊奈家の墓所。埼玉県重要史跡。本堂の前を左に折れると墓所。宝篋印塔(ほうきょういんとう)型の墓が4基。左から伊奈家三代忠治、初代忠次、右の2基は不明。


伊奈家墓所についての説明板。

ここで伊奈家の出自を追う。
伊奈家の祖は清和源氏八幡太郎義家の流れを汲み戸賀崎氏と称した。戸ヶ崎(現愛知県西尾市)を本拠地としたのか? 源氏とは天皇家の庶流で臣籍降下して侍(ガードマン)になった一族。あるとき荒川氏に改称、理由は不明。四郎易氏のとき足利将軍義尚より信濃国伊奈郡(伊那地方か?)を与えられ現在の下伊那郡豊丘村河野に本拠を構え赤石山脈の荒川岳にちなんで荒川氏を名乗ったという説もある。易氏は嫡男太郎市易次を伊奈郡熊蔵の里に、次男易正を伊奈郡保科の里に住まわせたとあるがこの場所がわからない。太郎市易次没後は、熊蔵の城は嫡男金太郎が幼少のため叔父易正が後見人として管理、金太郎易次が成人後も返却しないため(居直り強奪)、金太郎易次は抗争を避けて祖先の地の三河で浪人、伊奈熊蔵易次と称した。
熊蔵、保科という地は現在の伊那地方にはない。熊蔵は南安曇郡の梓川、奈良井川の合流するあたりの熊倉(現安曇野市)ではないかという。保科は長野ICの近く上高井郡保科村(現長野市)ではないかと思われるが。いずれも確証はない。

そのごの伊奈家は松平家(家康の祖)に仕え小嶋(現西尾市)を領し、三河一向一揆に加わり再び浪人し、明智光秀の織田信長殺害(本能寺事件)のとき堺にいた家康のもとにはせ参じ、再び小嶋領を与えられ徳川家に仕えることとなった。伊奈熊蔵易次から三代あとの伊奈熊蔵忠次である。

伊奈熊蔵忠次・・・1590年徳川の江戸入りより200年続いた世襲の関東郡代伊奈家の初代。10000石で小室に陣屋を構える(三州小嶋の旧領を合わせると13000石とも)。身分は大名でもない旗本でもない。徳川家の天領、旗本知行地、水戸家、譜代大名領と入り乱れている関東地区の総括責任者です。徴税責任者、公安責任者、農政、治水・道路・河川土木の責任者・・・郡代の仕事は多岐に渉る。とても個人能力ではさばききれないでしょう。優秀な家臣団(技能集団)を束ねるカリスマ的存在だったのでしょうか。
大都市江戸の建設のもっとも大きな工事は東京湾に向かう利根川を太平洋に流す大工事です。1594年に利根川が東京湾に向かう合の川の締め切りが始まります。家康の大プロジェクトですが忠次の調査報告書、計画案に沿ったものと推測されます。利根川の東遷が完成するのは1654年4代忠克のときです。

官位は備前守。伊奈家の土木設計を伊奈流、備前流という。甲州流の治水技術も会得していたらしい。各地に備前堀、備前堤、備前渠などの名前が残る。公共事業の親分のような人だ。

忠次のあとに続いた伊奈家三代半十郎忠治を追って川口市の赤山陣屋に行ってみよう。


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