比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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信濃の歴史旅・・・あんずの里の・・・森将軍塚・・・北信濃を支配した豪族の夢

2019-06-04 | 古墳・遺跡・石塔婆
信州上田の・・・六文銭の写真帳

4月3日、長野県千曲市森の「科野の森歴史公園」・・・を訪ねて花見です。
1971年に森将軍塚古墳が国指定史跡になっ大々的にて発掘調査、1981年復元工事が開始。1992年完成。そのあとに長野県立歴史館(1994年開館)、千曲市立森将軍塚古墳館(1987年開館)、古代の住居ムラなど含めて整備された「科野の里歴史公園」です。

麓から比高130mばかりの有明山の中腹の大きな古墳が・・・森将軍塚です。森さんという将軍のお墓ではありません。森という集落にあるむかしの豪族のお墓です。豪族の名前もどのくらいの範囲の地域を支配していたかなど、詳細は不明です。副葬品もむかしに盗掘されてほとんど出てこないようです。復元された大きな前方後円の古墳です。長さ約100m、前方部の幅30m、後円部の幅50m、4世紀後半のものと推定。石室は竪穴式、長さ7.6m、幅m、深さ2.6m。

北の方角・・・善光寺平、飯縄山が。晴れていれば戸隠連峰が見えます。

1981年から11年の年月をかけて1992年に復元完成したものです。自然石で覆われた葺石式です。復元された埴輪や形象埴輪が並びます。

すべて推測の上に復元(復原?)・・・この山で採れた石英斑岩を組み合わせた野面積みです。記録を文字に残す時代ではないので、詳細は何一つありません。

これだけの自然石をどうやって運んだのでしょうか・・・修羅・・・木橇をコロで動かす・・・という技法が推定されています。

大きな古墳は近畿地方で天皇家のものが有名ですが、古墳時代の初期は地方の豪族も力を持っていてこのような大きな古墳があります。
天皇家の地方支配が進むとこのような大きな古墳は見られなくなるようです。
古墳時代後期になると古墳自体は小さくなり数mのものも。方噴だけ、円墳だけ、高句麗様式のものと多様になり集団墓地のように規模の大きいものもあります。



※撮影日は4月3日。
この古墳は1965年採石場として開発がはじまったころ、この周辺の小古墳が崩される状態となり、1970年保存対策協議会が発足、住民の署名、地権者の協力などもあり1971年国指定史跡に。発掘調査後に1981年復元工事が開始。1992年完成後は長野県立歴史館(1994年開館)、千曲市立森将軍塚古墳館(1987年開館)、弥生時代復元住居跡など含めて「科野の里歴史公園」として整備。副葬品は全国どこの古墳と同じように盗掘、乱掘によりほとんどなかったようですが埴輪、鏡片、鉄剣などが出土したようです。以後、この周辺の有明山将軍塚、倉科将軍塚、土口将軍塚が国指定史跡に加えられ埴科古墳群と呼ばれるように。小さな円形古墳、方形古墳は数えきれないほどあるようです。

★千曲市公式サイトより→クリック→「科野の森歴史公園

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