比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
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江戸・東京の土台を作った男・・・伊奈家のルーツを追って

2010-02-17 | 古城・城址・陣屋・館跡
世界のメガロポリス東京・・・その礎は1590年(天正18年)8月徳川家康が関八州の領主として江戸の入城(八朔の打ち入り)(御討入とも)したときから始まります。
徳川家の国替え・・・家康は豊臣秀吉の天下統一の仕上げのような小田原の北条攻めを終わった直後、本拠地の駿府城に帰ることなく転勤を命じられます。関八州240万石(当初は6州)といっても、ほとんど何も無い不毛の大地です。僻地に左遷という感じ。
八朔・・・8月1日・・・打ち入りという覚悟を決めて江戸入り。当時の江戸城の周りは100戸ぐらいの寒村。太田道灌の縄張りといわれる江戸城は板葺の粗末なものだったようです。

現在の東京。多摩川、隅田川、荒川、中川、新中川、江戸川の河川と湾岸港と空港が控える理想的な都市です。
この礎をつくったのが徳川家康。八朔の入城前に都市つくりのために家臣団は先乗りして準備を始めていたといいます。都市つくりで必要な人材は槍一筋の武闘集団でなく財政・土木・農政に通じた技能集団(地方巧者)。
まず農業振興です。関東平野という広大な後背地、利根川、渡良瀬川、荒川、入間川などがすべて東京湾に流れ込む洪水湿地帯。稔りわずかな土地だったでしょう。治水と新田開発で農耕地を作らなければなりません。

この大プロジェクトの推進役を命じられたのが伊奈熊蔵忠次・・・小田原攻めのときの小荷駄奉行(物資の調達、輸送、ほかに工事関係)、裏方ですね。
関東平野の中心(ヘソの部分)現在の伊奈町小室に陣屋を構えてその執行にあたります。

埼玉県伊奈町にある小室陣屋(伊奈氏居館址)を訪ねてみました。上尾市の東、大宮台地の田園地帯。東北新幹線、上越新幹線が分岐するあたり、並んで走っている埼玉新都市交通(ニューシャトル線)の丸山駅あたりのそば。またの名前を丸山陣屋・・・1934年埼玉県重要史跡に指定されていますが、ほとんどの土地が私有地。

館跡を偲ばすものはこの数100坪の林地(二の丸跡)だけのよう。

林地の道路際に立つ石の碑文。昭和9年(史跡指定の年)の文字が。

伊奈一族・・・この埼玉に住んで荒川・利根川の流路変更のこと、その執行役の伊奈一族の名前を知りました。さらに埼玉県と茨城県の2箇所の町名に代官の名前が冠せられている。
わたしの出身は信州伊那の谷・・・伊奈という姓は伊那に関係あるのだろうかという素朴な疑問が生まれました。

松浦節「明けゆく天地」(新人物往来社・2006年刊)
関東代官頭・・・伊奈熊蔵忠次の若き日を描いた小説。ここでは少年時代を信濃国塩尻で過ごし、祖先の地・・・豊科高家(たきべ)の熊倉(現安曇野市)を訪れるところから始まり、天正18年の徳川家江戸八朔の打ち入りまで。

素晴らしい小説(もちろんフィクション)です。興味のある方はぜひ読んでください。

江戸・関東を開拓した関東郡代伊奈家の初代、伊奈熊蔵忠次・・・熊蔵はどうもこの熊倉のことを指すようです。さらにこの書によれば伊奈の姓は安曇の地の伊奈郡熊蔵にちなむと・・・安曇の地が室町時代は伊奈郡といったのでしょうか。

私は信州伊那の出身ですから、伊奈(伊那)といえば諏訪湖から発する天竜川が諏訪盆地から谷の狭窄地を抜けて赤石山脈と木曽山脈に挟まれた谷間に出た沖積地(伊那谷)を指すと思っていました。ちなみにイナは猪名川、員弁、伊奈、伊那部・・・律令時代の木工・林業集団(渡来人)という説もある。

いままで謎だった伊奈一族のルーツがだんだんわかってきました。
この話は長くのなるので次回に続きます。次回は近くの鴻巣市にある伊奈家の墓所「勝願寺」に行ってみます。

それにしても町の名前に冠せられた伊奈家の小室陣屋(埼玉県重要史跡)、道標も無く車1台を置く駐車場も無く、わずかな林地と1934年の石碑のみという寂しさ。関東の天地を開いた一族なのに。


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