比企の丘

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2017中欧の旅・・・マケドニアの首都スコピエ・終章・・・アレクサンドロス大王のモニュメント

2018-02-08 | 道を行く 海外 中欧・東欧
地球を歩く旅人・・・彩風人の写真帳

マケドニアのの首都スコピエ・・・を尋ねました。

マケドニア共和国・・・紀元前4世紀古代マケドニア王国の繁栄から・・・ローマ王国の支配、スラヴ人の侵入、東ローマ帝国の支配、オスマン帝國の支配。1931年バルカン戦争によりギリシァ、ブルガリア王国、セルビア王国に分割、第一次世界大戦、二次大戦、1945年ユーゴスラビア連邦マケドニア人民共和国に、27年前の1991年連邦から分離してマケドニア共和国に。マケドニア人のアイデンテティ―を模索している国です。
1963年震度6.1の大地震、死者1000人以上、家屋80%以上が壊滅。世界的な「スコピエ2014」という大プロジェクトで復興計画が進められ多くのクラシカルな建物、モニュメントが復元しています。彫像の街という印象が強いようです。


ヴァルダル川に架かる・・・・石橋(カメン・モスト)の南・・・マケドニア広場の「アレクサンドロス大王」の彫像・・・
高さ25m・・・広角のレンズでも全部入りません・・・背景のビルの屋上部分にも彫像が見えます。

勇敢な騎馬の戦士の像」といい・・・アレクサンドロス大王の像というわけではないらしいが・・・

ピリッポス2世(アレクサンドロス大王の父王)の彫像。
石橋を挟んでアレクサンドロス大王の彫像と対面。
背景のビルのバルコニーにも彫像が。彫像の街です。

ピリッポス2世(BC382~336年)・・・マケドニア王国の君主、軍略、戦術に優れギリシャの弱小ポリスのマケドニアを強力国家に成長させコリントス同盟(スパルタを除くギリシャポリス同盟)の盟主に。さらにペルシャ遠征を目指したが宴席中に護衛に暗殺され、アレクサンドロス三世にその計画は軽装、長槍の歩兵、騎馬隊の混成密集集団による強力な攻撃戦術と共に引き継がれた。
アレクサンドロス大王(BC356~323年)・・・英語読みでアレキサンダー大王、ペルシャ語でイスカンダル。父ピリッポス2世の死により20歳でマケドニア王国君主、コリントス同盟の盟主に。AC332年エジプトを征服してファラオに。ハン二バル、カエサル、ナポレオンらからも歴史上最強の英雄とみなされていたという。父ピリッポス2世から引き継いだ東方への軍事遠征はAC334年に始まり323年バビロン(現イラク)で33歳で死去するまで続く。死因はマラリア説、蜂に刺されて説。
東方遠征は現トルコの小アジアからエジプト、チグリス・ユーフラテス川流域、中央アジアのタジキスタン、ウズベクスタン、インドのインダス川西岸、アフガニスタンまで及び、占領地の融和政策、兵士と占領地の女性との結婚による同化政策、ギリシャ文化と東方文化の融和、現地代官の起用などがとられた。
マケドニア王国の繁栄はアレクサンドロスの死により有能な後継者が不在のまま崩壊。武力による繁栄は永久には続かない・・・夢まぼろし・・・
マケドニア共和国・・・1931年バルカン戦争で三分割される前のマケドニアの約4割(旧セルビア領)であり、5割はギリシャ領マケドニア、1割はブルガリア領マケドニア、人種的にはマケドニア人(4~5世紀に移住してきたスラブ系人)64%、アルバニア人25%。モニュメントにある英雄は古代ギリシャ人。マケドニア共和国の国名呼称も課題となっている。マケドニア人という自認はこれからの課題。
※撮影日は2017年7月24日。

旅は続きます、セルビアに移動。

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