2月1日午後7:20~8:56NHKBSプレミアムでテレビドラマ「永遠のニシパ 北海道と名付けた男」が放映されます。
「北海道と名付けた男」とは幕末の探検家「松浦武四郎」のこと・・・
松浦武四郎・・・ほとんどの人が知らないかも。
札幌(さっぽろ)、石狩(いしかり)、十勝(とかち)、釧路(くしろ)、根室(ねむろ)・・・など・・・アイヌが呼んだ土地の名前を日本語の表音表記にして明治新政府に認めさせた人。
「北海道」・・・この名前も松浦武四郎の建議によるものといわれます。
ドラマは、「北海道」という行政体名が松浦武四郎の建議により1869年太政官布告されてから2019年で150年、NHK札幌放送局が「北海道150年記念」として制作したもの・・・2019年6月7日NHK北海道限定で放映、7月15日NHK総合地上波で、9月23日BS4Kで放映。今回はNHKBSプレミアムで。
「ニシパ」とは「尊敬する人、大切な人」という意味だそうです。
ニュースを除いてはほとんどのテレビ番組はリアルタイムで見ることがなく、見たい番組だけ録画で見ることにしています。
松本 潤、深田恭子の主演、ストーリーの展開は知りません。楽しみです。
2012年3月、釧路を訪れたとき。吹雪の朝、幣舞橋の近くの小さな公園で見た松浦武四郎の記念像です。懐かしい思い出です。
釧路駅前から市の中心部を南北に貫く北大通り、釧路川に架けられた幣舞橋・・・
幣舞橋を渡った六差路のロータリー、河岸段丘の上の「ぬさまい公園」に「松浦武四郎蝦夷地探検像」がある。
像は1958年建立・・・武四郎はその100年前の1858年3月、3度目の釧路の地を踏んでいる。
当時の釧路は松前藩クスリ場所・・・武四郎はこの地の詳細を「久摺日誌」に残した。
☆松浦武四郎・・・1818~1888年、伊勢国一志郡須川村(現松阪市)の農家の出。御師、僧籍、国学者、篆刻家、本草学者、民俗学者、地理学者、浮世絵師、登山家、探検家、さまざまな顔を持つ。青年のころ京都、江戸、中部山岳、中四国、九州、東北を歩く。27歳で帰郷するがふたたび旅立ち、28歳で蝦夷地に、以後42歳までに6度蝦夷地を踏み、樺太、択捉まで及んだ。
「久摺日誌」他、多く日記で蝦夷地の考察文を残し、特に渡島国松前藩の場所請負人がアイヌに対して暴虐な扱いをしていることを糾弾している(場所請負制度・・・商人知行制度ともいう・・・松前藩が統治する場所を民間に丸投げにしていた行政委託制度・・・すべてではないが領民に対して奴隷的な搾取をしていた請負人がいたという)。
1866年江戸幕府蝦夷御用御庸、明治維新後の1869年明治政府の開拓判官、蝦夷地の県名、支庁名、郡名、村名の決定のために献策した。北海道の地名、最初の案では北加伊道、北海道。海北道、海鳥道、東北道、千島道、日高見道・・・などの7案、その中で北加伊道・・・北海道となったという。「カイ」は武四郎が天塩川流域の古潭(現在の音威子府村)でアイヌに教えられた「カイ=この地に生まれた者」の言葉から。
武四郎は翌1870年明治政府開拓使たちのアイヌへの偏見差別に憤り職を辞したといわれる。
武四郎の詠んだ歌・・・「心せよ 蝦夷(えみし)も同じ人にして この国人の数ならぬかは」
佐江衆一著「北海道人」
(新人物往来社 1999年刊)
「北海道と名付けた男」とは幕末の探検家「松浦武四郎」のこと・・・
松浦武四郎・・・ほとんどの人が知らないかも。
札幌(さっぽろ)、石狩(いしかり)、十勝(とかち)、釧路(くしろ)、根室(ねむろ)・・・など・・・アイヌが呼んだ土地の名前を日本語の表音表記にして明治新政府に認めさせた人。
「北海道」・・・この名前も松浦武四郎の建議によるものといわれます。
ドラマは、「北海道」という行政体名が松浦武四郎の建議により1869年太政官布告されてから2019年で150年、NHK札幌放送局が「北海道150年記念」として制作したもの・・・2019年6月7日NHK北海道限定で放映、7月15日NHK総合地上波で、9月23日BS4Kで放映。今回はNHKBSプレミアムで。
「ニシパ」とは「尊敬する人、大切な人」という意味だそうです。
ニュースを除いてはほとんどのテレビ番組はリアルタイムで見ることがなく、見たい番組だけ録画で見ることにしています。
松本 潤、深田恭子の主演、ストーリーの展開は知りません。楽しみです。
2012年3月、釧路を訪れたとき。吹雪の朝、幣舞橋の近くの小さな公園で見た松浦武四郎の記念像です。懐かしい思い出です。
釧路駅前から市の中心部を南北に貫く北大通り、釧路川に架けられた幣舞橋・・・
幣舞橋を渡った六差路のロータリー、河岸段丘の上の「ぬさまい公園」に「松浦武四郎蝦夷地探検像」がある。
像は1958年建立・・・武四郎はその100年前の1858年3月、3度目の釧路の地を踏んでいる。
当時の釧路は松前藩クスリ場所・・・武四郎はこの地の詳細を「久摺日誌」に残した。
☆松浦武四郎・・・1818~1888年、伊勢国一志郡須川村(現松阪市)の農家の出。御師、僧籍、国学者、篆刻家、本草学者、民俗学者、地理学者、浮世絵師、登山家、探検家、さまざまな顔を持つ。青年のころ京都、江戸、中部山岳、中四国、九州、東北を歩く。27歳で帰郷するがふたたび旅立ち、28歳で蝦夷地に、以後42歳までに6度蝦夷地を踏み、樺太、択捉まで及んだ。
「久摺日誌」他、多く日記で蝦夷地の考察文を残し、特に渡島国松前藩の場所請負人がアイヌに対して暴虐な扱いをしていることを糾弾している(場所請負制度・・・商人知行制度ともいう・・・松前藩が統治する場所を民間に丸投げにしていた行政委託制度・・・すべてではないが領民に対して奴隷的な搾取をしていた請負人がいたという)。
1866年江戸幕府蝦夷御用御庸、明治維新後の1869年明治政府の開拓判官、蝦夷地の県名、支庁名、郡名、村名の決定のために献策した。北海道の地名、最初の案では北加伊道、北海道。海北道、海鳥道、東北道、千島道、日高見道・・・などの7案、その中で北加伊道・・・北海道となったという。「カイ」は武四郎が天塩川流域の古潭(現在の音威子府村)でアイヌに教えられた「カイ=この地に生まれた者」の言葉から。
武四郎は翌1870年明治政府開拓使たちのアイヌへの偏見差別に憤り職を辞したといわれる。
武四郎の詠んだ歌・・・「心せよ 蝦夷(えみし)も同じ人にして この国人の数ならぬかは」
★日本においてアイヌが先住民族と認められたのは2019年制定の「アイヌ支援法」に明記されてからです。
佐江衆一著「北海道人」
(新人物往来社 1999年刊)
※コメント欄オープン。
本件内容とは別件で・・・・・。
1)「北海道と名付けた男」
2)「ワタシが日本に住む理由」等・
の記事をピックupするのに相当時間が出来上がるまでに要すると思います。
検討、調べ、執筆、訂正、推敲・・・・と、かなり時間を要すると思われます。
縄文人など、この1)を完結するまで4~5時間余時間をいやもっと徒労かな・・・・・と思います。
どのくらいの時間を費やしますか!?
調べ、upしたものでないとその苦労は分からない・・・・・・・・・・。
従って
★愛読者「フォローワー」登録について・・・歓迎です。ただし相互アクセスが原則です。
・・・・・・が、細字で書いて有ります、目に入ります。
この気持ち良くよく解ります。
何時も画像鮮明、内容充実の記事、感心しながら拝見しています。
、
「面白くなくちゃブログでない」この言葉を銘にしてblog作りしてます。自分だけわかっていてもだめ。見る人に何か印象を与えたい・・・感動を与えたいなんて言うと僭越になりますから。
こうしたブログをUPするときは編集時間は1時間ぐらいですが頭の中で1週間ぐらい。下調べ、蘊蓄は見る人が納得するように、ネットでできるだけ詳しくググってメモします。地理的なものは地図をググって見る人が訪問できるぐらいに詳しく。
むかしは図書館で調べましたが今はネットという武器があります。
①「アメリカから来たお嫁さん」テレビを見ていて自分が感動。収録していました。写真の選択でいかに枚数を絞れるかに思案。
ふるさとのことなので思い入れがありスラスラとできました。
②松浦武四郎のこと・・・2012年にブログで扱っているので、ほとんどそこから文章も写真もコピーして貼り込みです。
アイヌに寄り添った武四郎の心が好きだったのです。
これも頭の中の編集が1週間、upの時間は1時間ぐらいです。
③愛読者登録・・・ぼんぼん放り込まれ、あとはナシのつぶてが多いです。中には自分は訪問しなくても応答がないと文句言う人がいます。
ブログでいろいろな人にいろいろなことを教わりました。
コメントありがとうございました。