比企の丘

彩の国・・・比企丘陵・・・鳩山の里びと。
写真、文章のリンク自由。

京都の秋を尋ねて・・・京都御所・・・御常御殿など

2018-10-08 | 道をゆく 近畿
信州上田の・・・六文銭の写真帳

昨年の晩秋の京都ツアーの旅・・・京都の秋は遅い、紅葉の時期は11月終りごろから。イイ旅でした。
まず最初に尋ねたのは京都御所。修学旅行以来かな。都がが奈良から京都に遷都した794年、御所は現在の地より西の位置に置かれていましたが、1331年現在の地に、以来1869年まで歴代の天皇が居住し、祭事、公務を行ってきました。
御所内の様子です。

御常御殿・・・天皇の居住した屋敷、寝所、居間、面接の間など。

蹴鞠の庭・・・

諸太夫の間・・・参内したもの控え室。

御車寄・・・玄関です。

新御車寄
※撮影は2017年11月30日 Panasonic LUMIX DMC-TZ85。

京都の秋を尋ねて・・・京都御所・・・天皇家の祭事場・・・紫宸殿

2018-10-08 | 道をゆく 近畿
信州上田の・・・六文銭の写真帳

昨年の晩秋の京都ツアーの旅・・・京都の秋は遅い、紅葉の時期は11月終りごろから。イイ旅でした。
まず最初に尋ねたのは京都御所。修学旅行以来かな。都が奈良から京都に遷都した794年、御所は現在の地より西の位置に置かれていましたが、1331年現在の地に、以来1869年まで歴代の天皇が居住し、祭事、公務を行ってきました。清所門から中に入ります。
御所の中心・・・紫宸殿・・・です。天皇の即位礼。天皇家の主な公式祭事を行います。

御所から見て南が真正面、建礼門、承明門そして南を向いて紫宸殿です。

鎌倉時代に焼失、長く臨時殿で採餌を行っていたが1855年建立。間口37.7m、奥行き27.3m、高さ20.5m。


※撮影は2017年11月30日 Panasonic LUMIX DMC-TZ85。

京都の秋を尋ねて・・・まずはじめは・・・京都御所へ・・・門を見る

2018-10-07 | 道をゆく 近畿
信州上田の・・・六文銭の写真帳

昨年の晩秋の京都ツアーの旅・・・京都の秋は遅い、紅葉の時期は11月終りごろから。イイ旅でした。
まず最初に尋ねたのは京都御所。修学旅行以来かな。都がが奈良から京都に遷都した794年、御所は現在の地より西の位置に置かれていましたが、1331年現在の地に、以来1869年まで歴代の天皇が居住し、祭事、公務を行ってきました。
東西250m、南北450m、約11㌶。外郭は5本線の築地塀に囲まれ、6つの門があります。南の朱雀大通りに向かった方向を正面として建礼門、西側に3つの門、北側、東側に1つ。

建礼門・・・京都御所の南正面の門・・・天皇だけが通る門ですが最近では国賓も。

清所門・・・西側中央にある門、参観者の出入口。

建春門・・・東側にある門。
※撮影は2017年11月30日 Panasonic LUMIX DMC-TZ85。


※コメント欄閉じています。




日本海の京・・・日本で最も美しい村・・・伊根・・・舟屋の風景

2016-02-15 | 道をゆく 近畿
彩風人・・・2015年12月、近江から若狭・丹後への紀行文です。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ・・・でした。
海の京都・丹後」・・・舞鶴宮津から伊根にやって来ました。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
丹後半島の北東・・・小さな漁村伊根・・・230戸余の舟屋が周囲4㎞ばかりの伊根浦を取り囲んでいます。
国の重要伝統的建造物保存地区の「伊根の舟屋群」です。

舟屋・・・漁村の住居のこのような形態、日本ではここだけでしょうか。陸地から海面にせり出して一階が船揚場(車でいえばガレージ)、作業場、物置、二階が居室・・・住居が漁場に直結した珍しい生活空間です。映画「男はつらいよ寅次郎あじさいの恋」(1982年)、映画「釣りバカ日記5」(1992年)で舞台になっていましたが、1993年のNHKの朝の連続テレビ小説「ええにょぼ」で美しい海と漁村の風景が映し出されて一躍有名になりました。国営テレビ局?の「テレビのチカラ」ってスゴイですね。地元の酒屋さんのお酒の銘柄に「ええにょぼ」ってのがあるそうです。でも・・・テレビのチカラもありますが日本の原風景のような漁村の佇まいが人々に感動を与えたのでしょう。※ちなみに・・・このドラマのあらすじなどは記憶にありません。




切妻造りの妻の面が海に向けて、土台や柱は椎の木。梁は松の木、こうした建物は江戸時代中期ごろからだそうです。


※撮影日は2015年12月16日。カメラはFUJIFIRM X-T10。
※京都府与謝郡伊根町・・・人口2139人、筒川の本庄浜に浦島太郎伝説(浦島伝説は日本各地にあるが8世紀の「丹後風土記」の文献は日本最古)、新井に徐福上陸伝説(秦の始皇帝の命令で日本に「不老不死の薬」を求めてやってきた人物、この伝説も日本各地にある)。2006年「日本で最も美しい村連合」加盟。

海の京都・・・丹後・・・宮津・・・天橋立の廻旋橋

2016-02-14 | 道をゆく 近畿
彩風人・・・2015年12月、近江から若狭・丹後への紀行文です。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ・・・でした。
海の京都・丹後」・・・舞鶴から宮津にやって来ました。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
宮津市文珠と小橋立を結ぶ小天橋、小橋立と大橋立を結ぶ大天橋。天橋立には二つの橋があります。
この橋は小天橋…船の交通のたびに90度旋廻・・・廻旋橋と呼ばれます。1923年架橋。

人力で動かしていたそうですが1957年に電動化。

宮津湾に停泊した大型貨物船からニッケル鉱石を内海の阿蘇海の日本冶金大江山製造所に運ぶ小型運搬船「第二双輪丸」。
※撮影日は2015年12月15日。カメラはCanon PowerShot G7X。

海の京都・・・丹後・・・宮津の・・・文珠堂を尋ねる

2016-02-13 | 道をゆく 近畿
彩風人・・・2015年12月、近江から若狭・丹後への紀行文です。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ・・・でした。
海の京都・丹後」・・・舞鶴から宮津にやって来ました。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
天橋立の文珠堂です。
808年開基、臨済宗妙心寺派天橋山智恩寺山門は1767年上棟、市指定文化財。
智恩寺という名前は知らなくても「天橋立の文珠堂」「九世戸の文珠]「切戸の文珠」で名高いのだそうだ。

多宝塔・・・1501年建立、国の重要文化財。

文珠堂・・・建立年は不明、1657年改修、1999年保存修理。ご本尊の木造文殊菩薩像(鎌倉期?)は国の重要文化財。
日本三大文珠だそうだがそのどこもわたしは知らない。


境内にいたニャンコ
※撮影日は2015年12月15日。カメラはFUJIFIRM X-T10。




海の京都・・・丹後・・・宮津の・・・自然の造りだしたアート・・・天橋立

2016-02-13 | 道をゆく 近畿
彩風人・・・2015年12月、近江から若狭・丹後への紀行文です。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ・・・でした。
海の京都・丹後」・・・舞鶴から宮津にやって来ました。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
天橋立・・・みちのくの松島、安芸の宮島とならんで日本三景の一つ・・・だそうです(日本人はすぐランクづけたがりますね、そんなことしなくても価値あるものは価値あるんですが)。宮津湾と内海の阿蘇海との間を南北に隔てる幅20~170m、長さ3.6㎞の砂州、国の特別名勝、国定公園。この奇景がどうしてできたか・・・2万年前の陸地化から氷河期が終わり海面上昇・・・と考えていくと何が何だか分からなくなるので省略。自然の造りだしたアートというほかありません。

文珠山の上からの眺め・・・飛龍観・・・彩風人股覗きはしなかったようだ

天橋立の東側に砂浜がひろがる(海水浴場)。

松林(その数8000本)の中の公路・・・砂浜と合わせて白砂青松・・・
※撮影日は2015年12月15日。カメラはFUJIFIRM X-T10。



海の京都・・・丹後・・・舞鶴・・・赤レンガ倉庫群をゆく

2016-02-12 | 道をゆく 近畿
彩風人・・・2015年12月、近江から若狭・丹後への紀行文です。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ・・・でした。
海の京都・丹後」・・・舞鶴にやって来ました。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)
東舞鶴駅から北吸桟橋に向う間の舞鶴ウォーターフロントにある赤レンガ倉庫群。正式の呼称は「舞鶴旧鎮守府倉庫施設」・・・旧海軍軍需部本部の武器弾薬倉庫として1901~1903年の間に9棟、大正期に3棟、全12棟(うち8棟が国の重要文化財・近代化産業遺産)。5棟が舞鶴市所管で博物館、市政記念館、まいづる知恵蔵、赤れんが工房、赤れんがイベントホールとして公開。3棟が文化庁所管、4棟が海上自衛隊所管。


右から舞鶴市制記念館、まいづる知恵蔵、赤れんが工房。

懐かしい赤丸郵便ポスト・・・2号館と3号館の間に置かれていたもの。2015年10月現役復帰。

舞鶴赤れんがパーク・・・右から舞鶴市制記念館、まいづる知恵蔵、赤れんがイベントホール。


旧国鉄中舞鶴線(1919~1972年、営業距離3.4㎞)「北吸トンネル」・・・現在は舞鶴市道北吸桃山線の人道・自転車道路。
全長111m、1904年軍港引込み線として開削。国登録有形文化財。
※撮影日は2015年12月15日。カメラはFUJIFIRM X-T10。
 

海の軍都・・・舞鶴・・・北吸桟橋で・・・海上自衛隊の艦船を見た

2016-02-12 | 道をゆく 近畿
彩風人・・・2015年12月、近江から若狭・丹後への紀行文です。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ・・・でした。
海の京都・丹後」・・・舞鶴にやって来ました。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)

舞鶴東港・・・北吸桟橋・・・防衛省海上自衛隊舞鶴地方隊の艦船が浮かぶ・・・遠くにクレインブリッジが。

曳船(タグボート)58型64号、基準排水量260㌧。

補給艦425号「ましゅう」満載25000㌧、全長221m。他の艦船に対し物資補給する。

掃海艇681号「すがしま」満載590㌧。機雷除去用、磁気機雷に対応するため船体はおおむね木製。

多用途支援艦4301号「ひうち」満載1400㌧、航行不能船の曳行、消火、救難、輸送、災害救助。
後方のクレーン群のドックはむかしの海軍工廠、現「ジャパンマリンユナイテッド」。
※撮影日は2015年12月15日。カメラはFUJIFIRM X-T10。
火器を備えた艦船を見なくてよかった。が、補給船は武器、弾薬を運び、戦闘艦に燃料の補給もする船です。
防衛目的のため、平和目的のため、にだけ使ってほしい。できれば絶対に使われることの無いように祈る。戦闘は殺傷行為です。

舞鶴港》・・・東港は小さな岬を挟んで東側に国内の人流、物流のためのフェリーターミナルの前島埠頭が、西側に海上自衛隊の北吸埠頭が、岬の内側に旧海軍工廠が。西港は中国、韓国、ロシアなどの船が入る国際貿易港。
軍港として》1889年軍港指定、1901年鎮守府開設、造兵廠開設→1903年海軍工廠に組織改変。1904年日露戦争にはほとんどの船がここから出港。1945年あの戦争の敗戦とともに鎮守府は消滅。1952年保安庁発足とともに舞鶴地方隊が置かれた。
海軍工廠》あの戦争の前まであった日本海軍直営の軍艦、航空機、兵器、弾薬を開発・製造する軍需工場。
その後の海軍工廠》1946年飯野産業舞鶴造船所へ、1968年日立造船傘下の舞鶴重工業、1971年日立造船、2002年ユニバーサル造船(日立、日本鋼管)、2013年ジャパンマリンユナイテッド(IHI、JFE、ユニバーサル造船)。

「海の京都・丹後」へ・・・かつての軍港、敗戦時の引揚船の・・・舞鶴港

2016-02-11 | 道をゆく 近畿
彩風人・・・2015年12月、近江から若狭・丹後への紀行文です。しばらく間を置きましたが再開します。
旅の始まりは新幹線米原駅からJR東海道本線琵琶湖線で彦根・・・そして越前若狭へ・・・でした。
今回は若狭から「海の京都・丹後」への旅です。
・・・彩風人の写真帳・・・
(比企の丘からブログのギャラリー開放です)

舞鶴東港、前島埠頭フェリーターミナル

クレインブリッジ(鶴の橋)・・・舞鶴湾の奥、北東部の平湾に1999年に架けられた全長735mの斜張橋。
関西電力舞鶴火力発電所の工事用道路として建設され後に市道に。

岩壁の母」の港「舞鶴」・・・1945年8月、日本が戦争に負けた年、海外に軍人・軍属、民間人合わせて660万人が残留していたといわれます。GHQ(連合軍総司令部)の指示により博多、鹿児島から浦賀、函館まで11カ所の港に引揚援護局が設置され本土への引揚がはじまります。舞鶴港では1945年から1958年までの13年間、66万4531人(うちソ連から45万5952人)が上陸しました。シベリア抑留者の引揚船がここ舞鶴に入港したことは知らなくても二葉百合子が歌う演歌「岩壁の母」を知ってる人は多いのではないでしょうか。「岩壁の母」のモデル端野いせさんのお話しは割愛。
ちなみに引揚船が入港した桟橋はクレインブリッジの東側の平桟橋、1988年舞鶴引揚記念館、記念公園が開設。


前島埠頭のあたりから東側を見ています。遠くに東舞鶴医誠会病院。
※撮影日は2015年12月15日。カメラはFUJIFIRM X-T10。
 
どうでもいい話丹後・・・都から見て丹波国の後方だから丹後。いまの京都府の主に海に面した地域の律令時代の国名です。ちなみに丹波国とは京都、大阪、兵庫に跨る中国山地の中をいい、「谷端」(谷の端の盆地)、「田庭」(広々とした沖積平地)と文献にあり、後者が有力だそうだが、地図(航空写真)で見るととても広々とした平地には見えない。むかしの人には広々とした盆地に見えたのであろうか。