再び太宰治である。
この本の中の「桜桃」から、朗読してみたい部分があったので、抜粋してみた。
『桜桃』(抜粋) 太宰 治作
夏、家族全部三畳間に集まり、大にぎやか、大混雑の夕食をしたため、父はタオルでやたらに額の汗をふき、
「めし食って大汗かくもげびた事、と柳多留にあったけれども、どうも、こんなに子供たちがうるさくては、いかにお上品なおとうさんといえども、汗が流れる。」
と、ひとりぶつぶつ不平を言い出す。
母は、一歳の次女におっぱいを含ませながら、そうして、おとうさんと長女と長男のお給仕をするやら、子供たちのこぼしたものをふくやら、拾うやら、鼻をかんでやるやら、八面六臂のすさまじい働きをして、
「おとうさんは、お鼻にいちばん汗をおかきになるようね。いつも、せわしくお鼻をふいていらっしゃる。」
父は苦笑して、
「それじゃ、お前はどこだ。内股かね?」
「お上品なおとうさんですこと。」
「いや、なにもお前、医学的な話じゃないか。上品も下品もない。」
「私はね、」
と母は少しまじめな顔になり、
「この、お乳とお乳のあいだに、……涙の谷……」
涙の谷。
父は黙して、食事を続けた。
……中略……
「涙の谷。」
それが導火線であった。この夫婦は、手荒なことはもちろん、口ぎたなくののしり合った事さえないすこぶるおとなしい一組ではあるが、しかし、それだけまた一触即発の危険におののいているところもあった。両方が無言で、相手の悪さの証拠固めをしているような危険、一枚の札をちらと見せては伏せ、また一枚ちらと見せては伏せ、いつか、出し抜けに、さあできましたと札をそろえて眼前にひろげられるような危険、それが夫婦を互いに遠慮深くさせていたと言って言えないところがないでもなかった。妻のほうはとにかく、夫のほうは、たたけばたたくほど、いくらでもホコリの出そうな男なのである。
「涙の谷。」
そう言われて、夫は、ひがんだ。しかし、言い争いは好まない。沈黙した。お前はおれに、いくぶんあてつける気持ちで、そう言ったのであろうが、しかし、泣いているのはお前だけではない。おれだって、お前に負けず、子どもの事は考えている。自分の家庭はだいじだと思っている。子供が夜中に、へんな咳一つしても、きっと目がさめて、たまらない気持ちになる。もう少し、ましな家に引っ越して、お前や子供たちをよろこばせてあげたくてならぬが、しかし、おれには、どうしてもそこまで手が回らないのだ。これでもう、精一ぱいなのだ。おれだって、凶暴な魔物ではない。妻子を見殺しにして平然、というような「度胸」を持ってはいないのだ。配給や登録の事だって、知らないのではない、知るひま(、、)がないのだ。……父は、そう心の中でつぶやき、しかし、それを言い出す自信もなく、また、言い出して母から何か切りかえされたら、ぐうの音も出ないような気もして、
「だれか、ひとを雇いなさい。」
と、ひとりごとみたいに、わずかに主張した次第なのである。
母も、いったい、無口なほうである。しかし、言うことに、いつも、つめたい自信を持っていた。(この母に限らず、どこの女もたいていそんなものであるが。)
「でも、なかなか来てくれるひともありませんから。」
「捜せば、きっと見つかりますよ。来てくれるひとがないんじゃない、いてくれるひとがないんじゃないかな?」
「私が、ひとを使うのがへただとおっしゃるのですか?」
「そんな、……」
父はまた黙した。じつはそう思っていたのだ。しかし、黙した。
ああ、だれかひとり、雇ってくれたらいい。母が末の子を背負って、用足しに外に出かけると、父は後の二人の子の世話を見なければならぬ。そうして、来客が毎日、きまって十人くらいずつある。
「仕事部屋のほうへ、出かけたいんだけど。」
「これからですか?」
「そう。どうしても今夜のうちに書き上げなければならない仕事があるんだ。」
それは、うそではなかった。しかし、家の中の憂鬱から、のがれたい気持ちもあったのである。
「今夜は、私、妹のところへ行って来たいと思っているのですけど。」
それも、私は知っていた。妹は重態なのだ。しかし、女房が見舞いに行けば、私は子供のお守りをしなければならぬ。
「だから、ひとを雇って、……」
言いかけて、私は、よした。女房の身内のひとの事に少しでも、ふれると、ひどく二人の気持ちがふき出す。
生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと、血がふき出す。
私は黙って立って、六畳間の机の引き出しから原稿料の入っている封筒を取り出し、袂につっ込んで、それから原稿用紙と辞典を黒いふろしきに包み、物体でないみたいに、ふわりと外に出た。
以上である。