murota 雑記ブログ

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人間生命の不思議に迫る。

2022年04月02日 | 通常メモ
 人間生命は本来、善なのか悪なのか、性善説、性悪説の二説あるが、釈尊は「善悪無記」と説き、生命現象は善にも悪にも顕われるものであり、善とも悪とも断定していない。また、法華経を解説した天台大師は、縁に応じて顕われる生命現象を「一念三千の法門」として説いた。

 かつてニューヨークのある動物園に、世界で最も危険な動物と表示された場所があり、そこに立つと、大きな鏡が置いてあり、自分自身の姿を見られる。人間は心の変化一つで殺人を犯す動物でもある。
 トインビーは、人間生命の中で善の生命と悪の生命が常に戦っており、人類の歴史は、挑戦と応戦の歴史であったという。そして、人間生命の内側に善の生命(仏)を見る東洋仏法に期待するともいっている。


 人間の胎児は母親のお腹の中で、一個の受精細胞から細胞分裂を繰り返し、約60兆個の細胞の胎児に成長する。約10カ月の母親の胎内で胎児が変貌してゆく様子は、あたかも地球誕生以後、原始生命から、両生類、爬虫類、哺乳類へと進化する過程を見るようだ。そこには数10億年にわたる生命進化の過程が見られる。

 さて、人間の脳は3層構造になっている。すなわち、爬虫類型の脳(最も古い脳)、原始哺乳類型の脳、新哺乳類型の脳(大脳)の三つ。普段は3つの脳は協調して働いているが、睡眠時にはそのバランスが崩れる。睡眠の初期段階では、まず爬虫類型の脳の機能が低下し、筋肉が弛緩する。寝具の上にゆったりと横たわることで、身体が受ける感覚情報を最小限に抑え、明かりや音などの外部からの刺激も閉め出す。こうなると、我々の意識は爬虫類型の脳から離れてしまい、中間の原始哺乳類型の脳に移る。3つの脳の統合状態が崩れたなかで、爬虫類型の脳は最深部からの情報がなくても、自らの情報に反応するようになる。これが夢を見ている状態。この時期の睡眠はレム睡眠と呼ばれるが、さらに深い眠りに陥ると、われわれの意識は原始哺乳類型の脳から新哺乳類型の脳に移る。レム睡眠の時にはあった眼球運動や身体の動きも止まって、筋肉はいっそう弛緩する。この状態がしばらく続いた後、新哺乳類型の脳のスイッチも切られる。そして意識はどこの脳にもなくなり、深い睡眠状態に達する。それから、それまでの経過を逆にたどって、覚醒状態に戻り始める。以上の周期が何回か繰り返され、最後に極めて活発な統合状態が脳によみがえり、目が覚める。この睡眠と覚醒の周期は、ふつう片道が45分、往復で90分とされている。睡眠学者のクレイトマンによれば、この「統合と崩壊の90分周期」は目覚めている時にも存在しているという。この周期を彼は超日周期と呼んでいる。

 大脳は右半球と左半球とに分かれている。右脳と左脳である。大脳は脳の3層構造の中でも新哺乳類型の脳になる。左右が独立しているわけでなく、両者は「脳梁」によって神経的につながっている。ただし、これは成人の場合だけだ。乳児期には左右の新哺乳類型の脳は分離したままで、分離はしていても、どちらもその深部にある2つの古い脳とは連絡し合っている。右脳と左脳が機能的に大きく違ってくるのは、脳梁が完成して両半球がつながってからだ。それまでは、左右の脳は同じことをしていて、古い2つの脳が集める情報を、せっせと蓄えている。

 爬虫類型の脳と原始哺乳類型の脳は、乳児期には、自分を取り巻く世界の知識をせっせと思い出している。なめたりしゃぶったり、ニオイを嗅いだり、握ったりしながら、外界を思い出していく(地球誕生以来の生命的過去に蓄積されている記憶を呼び出している)。分離したままの新哺乳類型の脳も、この時期にはこの作業に参加している。
 脳梁が作られ始めるのが1歳頃からである。次第に発達し、4年ほどかけて両半球をつなぐ。この連絡部分が完成すると、左右の脳はそれぞれの役割を目指して分化する。この段階になると、左右の脳と古い脳との関係は一変する。それまで一体となって体験を通して外界の知識を思い出していたのが、古い2つの脳から独立して、左右は相互に作用し合うようになる。こうして新哺乳類型の脳である右脳と左脳が独立すると、人間らしい思考能力が発達し始める。

 乳児は2つの脳を持って生まれてくるが、1つは白紙の状態の新哺乳類型の脳、もう1つは遺伝情報を満載した爬虫類型と原始哺乳類型の脳だ。白紙の状態とは書き込み自由な状態で、新哺乳類型の脳が白紙ということは、そこに自由に情報を書き込むことが可能となり、新たに構造化するために白紙になっている。
 爬虫類型の脳と原始哺乳類型の脳に蓄積された情報は、あまりにも膨大で、それは数十億年かけて人類へと進化するまでの長い時間に獲得されたデータが保存されている。そこから、乳児が特定の細かな情報を引き出すには、身体を動かすことであり、ひっきりなしに体を動かすことで、乳児は潜在能力として持っている人類としての遺伝情報を活性化し、鮮明にしてくる。例えば、ダウン症の子供の治療に使われる『パターニング』と呼ばれる手法もこの応用となる。この人類としての遺伝情報が、古い2つの脳のなかにとどまっている間は、人間にはなれない。動物のように、その情報は反射的で本能的な行動パターンをもたらすだけだ。表層の新哺乳類型の脳が白紙の状態で生まれるということは、それは乳幼児の知的発達が、大人たちの対応次第で大きく左右される可能性を意味する。幼児の脳は周囲の世界をどう受け入れるか。出生後2ヶ月を過ぎると、乳児は音のする方向に首を回したり、手足を激しく動かしたり、指を吸ったりし始める。4ヶ月ごろには、近くのガラガラに手を伸ばし、つかんで振ったり口に入れたりする。6ヶ月を過ぎるころには、「ハイハイ」をするようになる、これが始まれば、乳児の外界探索はいよいよ活発になる。自分から感覚刺激を求めて動き回る。「ハイハイ」を始めた乳児の目の前にボールを転がすと、這ってそれを取りに行く。そして、乳児はボールの感触を確かめたり、眺めたり、なめたり、ニオイを嗅いだりする。このふれあいを通して、最終的には乳児の脳の神経回路にボールの波動パターンが組み込まれる、脳ホログラフィー理論でいうと、ボールの波動パターンが脳内で活性化される。その後は、ほかのボールを見てもそれほど注意を集中することなく、それが分かるようになる。つまり、脳がボールというものをすんなりと受け入れ、確認出来るようになる。このことは、乳児の脳がボールの情報を同化するパターンを持ったということであり、ふれあいによって得られた波動を、脳がパターン化したのである。その結果、乳児はボールという概念を持つ。生後1年を経過した頃から、幼児の脳は劇的な「論理の飛躍」を行う。その飛躍とは、見えないものを考えることができるようになることだ。

 1歳を過ぎた幼児は、目の前にあるボールをテレビの後ろに隠すと、それを探そうとする。目の前から無くなると、乳児の時にはすぐ別のものに注意を奪われたのに、テレビのところへ行って消えたボールを探す。ボールが見えなくとも、どこかにあると思うようになる。幼児が最初の頃に覚えるいくつかの言葉の中には、「ナイ、ナイ」という言葉が含まれる。見えないものを考える大きなステップであり、これによって幼児の論理は初めて柔軟性を獲得する。

 幼児期では、外界と関係するときに原始哺乳類型の脳に意識の中心がある。この脳が活性化されることによって、最深部の爬虫類型の脳と表層を覆っている新哺乳類型の脳との交信の仲介役を果たす。つまり、最深部の爬虫類型の脳が外界とのふれあいで発見したことは、中間の原始哺乳類型の脳で処理され、その情報は新哺乳類型の脳に供給される。この情報には、発見対象の感触と、その対象に対する自分なりの快不快、または好き嫌いの反応が含まれている。
 両半球が分離したままの幼児期の間は、表層部の新哺乳類型の脳は2つの脳から送られてくる様々な概念の蓄積に没頭している。しかし、脳梁が発生し、意識の中心が原始哺乳類型の脳に移る頃になると、新哺乳類型の脳は、2つの脳からの情報を明確に区別できるようになる。それによって幼児は自分の身体とそれ以外のものが違うことに気づく。自分の指を噛めば痛いが、食べ物を噛んでも痛くないと分かってくる。つまり、最初の自己感覚が生まれ始める。これこそが自我の芽生えであり、幼児期に最も大切なのは、親が大人の価値観に基づいて、幼児の触れあいの機会を取り上げてしまわないことだ。幼児期の6年間はありのままの世界に関する概念を蓄積する時期であり、それが幼児にとっての最優先課題だ。この時期の知的発達そのものになる。すべてに無防備な幼児は、簡単に転んでは擦り傷を作り、熱いものに触れてはヤケドをする。環境は実践の場となる。この時期に「汚いから」とか「危ないから」とかいって、幼児の触れあいのチャンスをつぶさない方が良い。

ここで「一念三千の法」を説いた天台大師の説いた九識(くしき)についての話にふれてみる。
人間生命の一念は、瞬間瞬間に変化してゆくが、次の瞬間に、どの生命状態にもなり得る可能性を秘めている。今の一念に次の三千(数量の多い譬え)の生命状態になる可能性を秘めている。縁する外界に応じて、さまざまに変化する。

 人が外界と接して色々な認識作用をするものとして、眼、耳、鼻、舌、身、意の六識(ろくしき)があり、これに加えて、7番目に、マナ識(思考の世界)、8番目にアラヤ識(過去から蓄積されてきた無意識の世界、深層心理の世界)、9番目にアマラ識(清浄識又は根本浄識といい、仏界であり宇宙生命に通ずる)、以上の九識(くしき)が説かれている。

 これらを分かりやすく例えると、目に見える地上6階の建物部分を、意識のある六識(ろくしき)の世界に例え、目に見えない地下3階部分(7番目マナ識、8番目アラヤ識、9番目アマラ識)を加える。すなわち、外からは見えない地下1階にマナ識(思考の世界)があり、心理学では「自我」と呼ぶ領域、そして地下2階にはアラヤ識(過去から蓄積されてきた無意識の世界で深層心理の領域)心理学では「集合」と呼ぶ領域があり、最後に地下3階にはアマラ識(清浄識又は根本浄識といい、宇宙生命に通ずる仏界の領域)があり心理学では「セルフ」と呼ばれるものともいえる。

 人間の脳は、右脳と左脳に分かれているが、他の動物には左脳がない。左脳は言語中枢の領域、思考の領域。これに対し、右脳はいわば感情の領域であり、動物本能に通ずる領域だ。仏法では、人間のことを梵語(サンスクリット語)でマヌシャといって、人間は考える存在であるという。生きてゆく意味を考える能力を持つ存在だという。生理学的にも左脳のない他の動物には言語中枢や思考の領域がないので、人間に劣る。従って、本質的に人間は、生きてゆく意味を考える宗教的存在なのだ。

 人間は外界と接して色々な認識作用をする。眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識といった六識は外界と接するアンテナのような働きであり、これは右脳の世界になる。これらの六識の内、六番目の「意識」は通常の意識であり、自然に応答できる程度のもので左脳の思考領域を働かせるほどのものではない。赤ちゃんとの対話は左脳を働かせるほどのものではなく右脳の範囲内、動物の世界も右脳の範囲内といえる。

 これに対し、7番目のマナ識(思考の世界)は心理学的には「自我」と呼ばれる領域、建物の例では地下1階にあたる部分であり、ここからは左脳の領域になる。外から見えない部分、何を考え、何を悩んでいるのか外からは見えない。左脳が働き出すと、深く考え、イライラやストレスもたまる。そして、次の地下2階には8番目のアラヤ識(過去から蓄積されてきた無意識の世界、心理学でいう「集合」と呼ぶ領域)がある。この領域は無意識(深層心理)の世界だ。意識というのは、どんどん忘れていっているが、無意職層の地下二階には全部残っており、お腹にいた時のお母さんの歌った歌まで入っている。東大医学部の研究室での実験で、人間の脳の一部に電気刺激を与えたところ、お母さんのお腹のなかにいた時の記憶が出てきたという。この深層心理の世界、心理学では「集合」と呼ぶ、このアラヤ識が、その人の人生を左右するという。宿業とか運命といわれるものであり、その人の過去の振る舞い、行動の積み重ねが、その人特有の生命の傾向性を形成してきたものともいえる。例えば、その人の好きになる人間、嫌いになる人間、その人がどんな病気の傾向性があるとか、どんな事で悩むか、これは心理学でいう「集合」(アラヤ識に相当する)に影響される。いわば地下2階の無意識層が地上の意識層に命令しているともいえる。初めて会うのに何となく懐かしい人、逆に何の恨みも無いのに会ったとたん腹が立つ人、自分の過去の生命経験で嫌な思いをしたものが地下2階の「集合」の記憶に入っていて、一目見た時に何の恨みも無いのに見た瞬間に腹が立つ。病気も先祖と同じような病気で死ぬ傾向性を持つ。

 遺伝という物理的な遺伝因子の継続というけれども、それは結果的に見えた現象であり、本質的な原因としては、生命経験の似たもの同士(天台の説く「眷族妙」)が同族となり、同じ遺伝因子が宿ってくるともいえよう。ユング自身も、ここから逃げられなくて、少し精神分裂症にかかっていた。ユングの先祖もこの病気の傾向性があった。ユングは、「集合」を何とか変えたいと考える。彼は、建物の例えでいうと、地下3階(9番目のアマラ識、心理学では「セルフ」と呼んでいる世界)に目を向けようとした。これは過去のイメージに左右されない、本来の宇宙生命(仏界)の世界、赤ちゃんで生まれてきた時は「セルフ」を持っている。しかし、過去から蓄積された左脳の「集合」の領域が成長するにつれて「セルフ」が出にくくなってくる。ユング自身はその「セルフ」に目を向け、左脳の「集合」を崩す方法を研究した。しかし、心理学では、ここまでが限界だ。この心理学でいうセルフの世界(天台の九識論では9番目のアマラ識)は宇宙生命の領域になる。それは法華経で説かれる仏界(善の生命)の世界であり、全ての人間生命に内在するもの、その実践は宗教の領域になってくる。自身の生命に本来そなわっている仏界の境涯を現じ、最高に輝く自分自身を体現することにあるようだ。

 そのためには、釈尊の言葉にある、人の心に刺さっている「差異へのこだわり」という「一本の矢」を抜き取ることから始めなければならない。ヨーロッパのある識者は「人間は生理学上、世界中の誰とでも、驚くほど同じである。この生理学上の同一性の上に文化や人生観、宗教等の差異が構築されている。そうである以上、文化や宗教の違いを根本的対立とするのは誤りである」といった。人間にとって、「差異へのこだわり」という「一本の矢」を抜き取るためには、「異なるもの」「自分にないもの」に耳を傾け、他者の個性を尊重することが必要だ。仏典には、全ての人の生命に仏性が内在していると説く。その人に特有の生命、他人とは違うという生命のこだわりを「小我」とするなら、それらの違いを全て包み込んだ宇宙生命(仏界)は「大我」ともいえる。「小我」を超えて「大我」に生きる、そこにこそ仏の生命がある。成仏とは、仏という特別な存在になることではなく、その身のままで仏という最高の人間性を開き現わすことにあるのかもしれない。


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