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murota 雑記ブログ

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太宰治における戦前と戦後の変化

2012年06月04日 | 歴史メモ
 近代中国の文豪魯迅(ろじん)の本名は周樹人だった。周は1904年、清の留学生として仙台医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学する。魯迅はもとから作家志望ではなかった。秀才の周でも医学の道は険しく、彼は刻苦し勉強に勤しんだ。解剖学を教えたのが藤野先生だ。藤野先生は周のノートを1週間に1度点検し添削をほどこして返す。ノートが赤く染まった。藤野先生は講義に関する記述の間違いだけでなく、文法の間違いも直した。そんな風に松岡正剛氏が述べている。

 更に続けてゆくと、藤野先生の指導も空しく、周は1906年、学校を退学する。理由は、細菌学の授業でたまたま見た幻燈に中国人のみじめな姿が写しだされており、それをみて、中国を救うのは医学ではなく、文芸だと思ったからだ。いわゆる「幻燈事件」がきっかけだった。周は作家になることを決意した。藤野先生に学校をやめることを告げると、藤野先生は非常に悲しんだ。周が仙台を離れる直前、藤野先生は周に餞別として自分の写った写真を与える。その写真の裏には「惜別」と書かれていた。藤野先生が周に対して親身に教えたのは、小は中国のためであり、大は新医学を中国に伝えるためだった。以上のことは魯迅の名作「藤野先生」にも書かれている。

 魯迅は「藤野先生」の中で、藤野先生は偉大であるが、先生の名は知られていないと書いている。日本には藤野先生の他にも有名ではないが、立派な先生はたくさんいた。太宰治の「惜別」は魯迅の「藤野先生」をベースに書かれた小説である。この小説はある意味においていわくつきの小説だ。これは昭和18年、内閣情報局と文学報告会の委嘱を受けて書き下ろされた。いわゆる、国威発揚のための国策的小説であった。国の為政者たちは戦争を肯定的に描き、なおかつ日本が勝つことを国民に信じさせ、そして日本人を奮いたたせる小説を太宰に期待した。

 太平洋戦争の戦時下、文学史に刻まれるような名作はほとんど書かれていない。国威発揚の小説はいくらでも書かれたが、そのような小説で後世に読み継がれたものは他にない。国から命じられて書かれた小説の中で現在でも読み継がれているのは太宰の「惜別」だけだ。「惜別」は国の意図に反して国威発揚の小説とはほど遠い。太宰はこの小説を通して、魯迅に対する思いを切々と書いた。太宰が情報局へ提出した「『惜別』の意図」は、「中国の人をいやしめず、また、決して軽薄におだてる事もなく、所謂(いわゆる)潔白の独立親和の態度で、若い周樹人を正しく慈しんで書くつもりであります。現代の中国の若い知識人に読ませて、日本にわれらの理解者ありの感情を抱かしめ、百発の弾丸以上に日支全面和平に効力あらしめんとの意図を有しています。」と書かれている。この文章は本当に「文芸」を愛している人にしか書けない。昭和18年という暗黒の時代にこの文を為政者に渡した太宰の勇気に目を見張る。「文芸」は「百発の弾丸以上」のものだ。

 物語では、太宰が主人公の周にのり移ったように、清の現状、日本の明治維新のこと、「文芸」のことを熱く語る。周が結局、医者になることを断念し作家を志すのは、「医学」という科学では中国を救えないと自覚するからだ。中国を救うためには、中国人を内面から変えなければならず、それは「文芸」によるしかない、だから作家になると周は語る。文芸を常日頃、「無用の用」といって慈しんでいた太宰は周の口を借りて、自分の「文芸」に対する思いを語る。太宰はすごい人物だった。太宰はとてつもなく勉強家であり、強靭な精神をもっていた。戦時下において太宰が書いたたくさんの作品、「新ハムレット」「正義と微笑」「津軽」「右大臣実朝」「新釈諸国話」「お伽草子」なども名作だ。

 太平洋戦争中そして戦後になっても太宰治の旺盛な創作意欲は少しも衰えなかった。しかし、戦争中と戦後の作品では作品の調子は大分違う。戦争中の作品は明るい。「津軽」「新釈諸国話」「お伽草子」などはその代表的なものだが、これらの作品には未来が存在する。苦しくても未来を信ずる。それが明るさとなって表れていた。作品に流れる逆境の中での明るさだ。回りの状況が悪化すればするほど太宰は研ぎ澄まされた感性でもって、暗闇の中に希望を見ていた。人民を信じ、国を信じ、そして天皇を信じた。太宰は敗戦があきらかな状況でも日本人と日本を信じた。終戦は日本の解放であった。世の中は復興に向かって動きだす。忘れていた未来の2文字が人々の前にちらついた。だが、太宰は逆に暗くなった。世の中に未来が充満し始めたのに、なぜ太宰は絶望したのか。太宰の戦後の代表作というと「斜陽」「人間失格」だ。絶望も若い人には生きるよすがになるのか、「斜陽」は青春小説だ。

 主人公かず子という没落貴族の女性によって語られる小説。かず子をとりまく3人の人がいる。母親、弟の直治、そして直治が親しくしている流行作家の上原である。4人はそれぞれ太宰の分身である。物語は戦争が終わって、かず子と母親が東京の家を売って、伊豆の山荘に移ったところから始まる。かず子一家は終戦になって財産をほとんど失った。貴族から平民になってしまった。かず子と母親はもっている着物などを売って生活する。母親は最後の貴族であった。気品があり、やさしい人だった。かず子も直治も母親を心の底から慕っていた。彼女は伊豆に移ってから日に日に弱りそして貴族の高貴さを残しながら静かに息を引き取る。それを追うように復員した直治も自殺する。直治は死ぬ時期をうかがっていた。直治は貴族という人種から抜け出たくてたまらなかったが、できなかった。彼はロマンチストだった。母親が死んで自分の生きる場所も意味もなくなってしまった。かず子はけなげにも「恋と革命」のために生きることを決意する。その第一歩として上原の子を身ごもる。上原は農民出身で貴族とは対極的にある人間だ。上原もこの世に絶望している。そんな上原に、かず子は恋をする。上原との恋を成就して彼の子を宿した時、かず子は上原と別れて生きることを決意する。太宰は「斜陽」を通して何をいいたかったのだろうか。

 太宰は「本当の自由主義者とは天皇陛下万歳といえる人間である」と何回となく作品(「苦悩の年鑑」「正義と微笑」など)の中でいっている。結局、戦争が終わっても人間の卑小さ・醜さ・軽薄さは変わらないと太宰は見抜いたのだろうか。戦争が終わって、俺は戦争には反対だったという人間が増え、これからの世の中は民主主義の時代だと吹聴する。太宰にはそれが時代に便乗する浮薄な行為としか写らなかった。民主主義を聖戦と変えれば戦争中と同じではないかと太宰は思ったのか。直治は軽薄な民主主義を口を極めて非難する。「斜陽」が書かれた1年数ヶ月後に太宰は自殺した。


1 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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太宰治の最後は悲しいね (T.H)
2012-06-04 11:46:10
太宰治の「惜別」は魯迅の「藤野先生」をベースに書かれたというが、魯迅ほどの強靭さがさいごまで太宰治の人生に貫かれなかったことが悔やまれる。「斜陽」が若者のベストセラーになったというのも納得できない時代を感ずるね。
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