murota 雑記ブログ

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歴史散歩、大化改新その後を振り返る。

2014年06月02日 | 歴史メモ
 大化改新の立役者は、その後皇位についた「孝徳帝」といわれる。日本書紀では中大兄皇子(なかのおおえおうじ)や中臣鎌足(なかとみのかまたり)ということになっているが、最近の歴史学では、皇極天皇の弟の孝徳天皇が首謀者との見方が強い。大化改新は最近では「乙巳の変(いっしのへん・おっしのへん)」と言われる。蘇我馬子や孫の入鹿は律令制度の導入に生涯をささげてきた。最後の仕上げが「公地公民制」の導入だった。これは豪族たちの領土が朝廷に取上げられるということでもある。時の天皇は女帝の皇極天皇であり、実際の政治は蘇我入鹿がおこなっていた。豪族たちから見れば「蘇我氏に領土を奪われる」と思った。日本書紀では聖徳太子が隋にならって律令制度の導入を考えていたと記述されているが、当時の執政者である蘇我馬子による発案と考えるのが自然だ。実際の発案者は馬子のブレインであった高句麗出身僧の「慧慈」と考えられる。慧慈は推古天皇3年(595年)に渡来し、推古天皇23年(615年)に高句麗へ帰国した。その結果、孝徳帝を首謀者として大化改新というクーデターがおき、蘇我宗家は滅びた。 . . . 本文を読む