
食欲の秋も本番。先日季節もあり、池波正太郎のエッセイ『食卓の情景』(新潮文庫)を再読した。題名通り食べ物をテーマとしたエッセイ集で、食通で知られた池波らしい話と人生観が語られている。昭和48(1973)年春頃に執筆された作品ゆえ当時の食生活が伺えるが、私が特に興味深いと思った章が「子供のころ」。大正12(1923)年生まれの著書の子供時代の食事が描かれており、そこから一部引用したい。
―私のような、東京の下町の貧しい職人の家庭で育った者は、子供のころ、どのようなものを食べていたろうか。私の場合、7歳の折に浅草で飾り職人をしていた祖父母のもとに引きとられ、やがて、再婚に破れた母が帰って来て、家族6人ほどで、月に30円から35円ほどの生活費であったという。家は祖父のものだったから家賃の必要はなかった。
先ず朝飯だが、熱い味噌汁に飯、香の物はおきまりとして、かならず焼海苔とか鉄火味噌とか、つくだ煮とかが膳に出ていたものである。私が学校に持って行く弁当は、焼海苔を飯の間にはさんだ、所謂“ノリベン”というやつ。またはネギ入りの炒卵、またははんぺんの付焼き。または焼豆腐を甘辛く煮しめたものなどであった。
およそ、牛乳なぞ口にしたことがない。「牛乳というものは、病気の時でなくては飲むものじゃあない」と、子供たちも考えていたし、親たちもそう思っていた。また、飲んでみても、少しもうまくなかった。
夕飯にはイカのつけ焼き、肉の細切れを玉ねぎとじゃがいもと共に煮たもの、アサリのお汁などで、たまにはマグロの刺身も出た。こうした惣菜の他に白和えとか、朝食についていたようなものが並ぶ。少しおごろうという時には、母がデパートの食品売場で買ってきたカツレツで「カツ丼」を作ったり、牛肉で白いシチューを作ったりした。
私も弟も到底上の学校に行けずに、13歳の時から世の中に出て行ったほど貧しかったが、ただの一度もひもじい思いをしたことはない。いつも腹いっぱい食べ、その頃は東京の町の何処にでもあった草原や空地や材木置場や石置場で跳ね回り、喧嘩し合い、叫び、わめき、笑い、泣き、精気に満ち満ちていたものである…
午後になると、大森の海(現大田区)でとれたカニやシャコを売る声が町をながしてきて、「来たぞ来たぞ」と、祖父などはこれを待ち構えてい、すぐに買って茹であげ、3時のおやつにみんなで食べたものである。
ハマグリやアサリはまさしく我々に相応しいものであって、焼いたりお汁にしたり、ネギと味噌で煮て暑い飯にかけたり、殊に私はアサリを細く薄く切った大根と一緒にさっと煮て、唐辛子をふりかけたのが大好物であった…(94-96頁)
どうです?東京という事情もあるが、現代人から見ても戦前の庶民の食卓の豊かさに驚かされる。昭和一桁生まれの私の母から聞いた子供時代の食事よりもずっと良い。岩出山町という宮城県北部の片田舎と東京では比べものにならないが、母の話では卵など戦前は滅多に口にできなかったという。焼海苔も気軽に食べられる食品ではなかったし、カツ丼に至っては戦後暫くもご馳走で、あまり食べられなかったそうだ。母の子供時代も、牛乳なぞ口にしたことがないらしく、それは牛肉も同じだった。
昭和48年といえば、私はまだ小学生だった。学校給食に牛乳は決まって出ていたが、その頃の私はあまり好きではなかった。私が牛乳好きになったのは中学生になってからである。牛肉もまだ高く、小学生の頃に食べたそれはハンガーガーのパテのみなのだ。もちろん私の子供時代も、ただの一度もひもじい思いをしたことはない。
昭和48年当時、まだ魚貝類は庶民の食べ物であり、アサリの味噌汁や筋子、タラコはよく我が家の食卓に上った。カニは当時でもさほど食べられなかったが、シャコもまだ安かったのだ。それが今では全て高級食材で気軽に食べられない代物に成り果てた。
その二に続く
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昭和初期の東京下町の食事情が、これほど豊かであったとは、しかも貧しくて上の学校にいけない、職人の家庭でこれだけ美食できたというのは、本当に驚きですね。左翼史観の歴史書などでは、軍備にばかり金がかかり、重税で、庶民はいつも食べられないほど貧しかったように想像していたから、この記述には驚きます。
小生は何しろ、敗戦の1945年生まれ、物心ついた4歳ころの記憶では、何とかご飯(母親の実家から入手)と、サツマイモ(自家生産)は食べていたし、漁村だから、安く買える魚をある程度は食べていたけど、魚も小生が嫌いだったコチ(今では高級魚だけど)とか、イカ(冷蔵庫がないから、普通煮たものばかり)、ハゼ(父親が朝釣りしたもの、昆布巻きにすることも多かった)などが続くとげんなりだった。
確かに、昔は鶏卵はごちそうで、偶にしか食べられないごちそうだった。昭和30年、小学4年頃、鶏を自宅で飼うようになって、初めて頻繁に食べられるようになった記憶がある。
牛乳も、病気の時にのみ配達してもらい、砂糖を入れて温めて飲むものだった。生の牛乳は、普段飲んでいないと、消化できないから。
ともかく小学2年の頃までは、本当に貧しく、サツマイモが常食という感じだった。しかも、我が家は畑を所有していたからサツマイモ、野菜がタダで手に入ったから、ふんだんに食べられたのであって、近所のサラリーしかない家庭は、サツマイモさえ貴重品だったようだ。
大学に入ったころも、小生はかなりの仕送りを受けていたが、昼は大学の食堂、夜は下宿で自炊という生活で、懐が寒いと、インスタントラーメン(1袋5個で100円ほどだったと思う)+キャベツとか、時には、食パン+キャベツ+マヨネーズというような食事となった。つまり、我々昭和世代は、結構総体として貧しく、食事も哀れなものだった。
その上、社会主義時代のブルガリアも、まともな食材が不十分な国だったから、わが人生、不味い食事が当たり前のような時代が長い。
とはいえ、あのころ、大人たちは、食い物の話はくだらない、腹が満たされれば何でもよい…という人が多く、学生時代、及び会社で、グルメ談義などは、あまりしなかったものだ。
しかし、この池上氏の少年時代の食生活を聞くと、実は江戸時代の庶民生活も、意外といい食事をしていたのかな?という感覚となる。西郷隆盛など、薩摩の下士階層は、赤貧だったというが、どういう食事だったのか??
ともかく、貧しい食品事情だったおかげで、小生は今では何を食べてもおいしいと思うし、さほどグルメに興味もない。気が楽である。今は、ブルガリアでも、結構すべての食品がおいしくなって、様変わりだ。社会主義という体制が、いかに食品について哀れかは、小生の身に染みている。
今、その最貧困の食品事情の中にある北朝鮮国民が哀れでならない。中国人も、ベトナム人も、不味い食品とはおさらば出来ているようで、北朝鮮のみが、未だに悲惨なのだ。
昔は流通が今ほど良くなかったということがあったかもしれませんが、戦中戦後の貧困イメージって、操作されたものなのかもしれませんね。
私も池波氏のエッセイで、これほどまでに戦前の東京の下町庶民の食卓が豊かだったことに驚きました。まだ大陸との戦争が本格的に始まらない1930年代前半まで、少なくとも帝都では恵まれていたのかもしれませんね。元NHKのアナンサーの鈴木健二も江戸っ子で、私の母と同じく昭和一桁生まれですが、明日の朝食が卵の時、嬉しくて夜も寝られなかったと言っていたのを憶えています。
私の母も戦時中よりも戦後が酷かったと言っていましたね。母の実家は和菓子屋でしたが、戦後はもちろん商売は出来ません。家には小さくとも畑があったので、じゃがいもなど野菜を自家栽培していましたが、子供が8人もいたのでとても足りない。祖母の実家は農家でしたが、農地解放で戦後は多くの土地を失いました。
それにしても、室長さんの大学時代にはインスタントラーメンが1袋5個で100円ほどで買えたのですか!今では安い時に5個で300円くらい、時代を感じます。そして当時の大人がグルメ談義をしなかったのも、やれなかったのが実態だったかもしれませんね。メディアにグルメ情報が氾濫している現代と、隔世の感があります。
池波氏の代表作『鬼平犯科帳』『剣客商売』などには、美味しそうな食べ物がよく出てきますよ。作者の創作もあるにせよ、江戸の町には料亭や屋台が多かったことが伺えます。小説の料理を御飯の参考にしたこともあります。
共産圏でもキューバの食糧事情はどうなっているのでしょうね。少なくとも北朝鮮のような慢性的飢餓はないように見えますが、共産圏でも北朝鮮は特殊なのかも。飽食しているのはトップだけ、李氏朝鮮時代のように中共に搾取され続けているようです。シリアと違い内戦状態でもないのに最貧困。「宗主国」が問題であり、旧ソ連ならまだマシだった?
それでも南朝鮮はもとより在日も、李氏朝鮮時代は平和で民は満足していたと脳内転換妄想しているようですし、北朝鮮人民も案外慣れきっていて、日本人が憐れむ必要はないかも。
戦後の秋、貴方の御祖母様は毎日毎日マツタケを食べていたとは、まるで信じられないお話です。空襲のなかった京都は、東京や大阪に比べ食糧事情がいささか良かったのでしょうか。本当に飽きるくらいにマツタケを食べてみたいものですが、今ではとても無理でしょう。
食糧難の戦後でも、日本で大量の餓死者が出ていないのは奇跡的です。あるインドの知識人が独立後の祖国は、中国と違い飢餓による餓死者を出していないと誇らしげに言ったことがありますが、室長さんが先に書いているように共産圏での食品事情は酷すぎる。
やはり食材などが豊富にそろうには、農民層が自由に自らの生産品目を決め、市場に売る、市場での競争がある、などということが必要です。
社会主義体制の絶対的な欠陥は、中欧計画委員会(ロシア語でGosplam)が、国民経済全体を「計画」で決めて、国有企業、集団農場に計画を指令し(命令し)、品目ごとの年間生産量も「割り当てる」というシステムで、現場レベルには何らの工夫とか、自由裁量がないこと(注:実際には、それでも、人為的で非合理な命令に対する抵抗として、企業経営の自主的判断としての命令違反は、社会主義国で頻発していた。そうでないと、国有企業、集団農場としての経理が成り立たないので)。
社会主義時代には、結局リンゴが年間何tという生産割り当てが来て、それが達成できないということは、気候の気まぐれもあって頻発する。しかもリンゴがもうからない作物なら、現場は「気候」を言い訳として、結局作ろうとしない。だから、食品、食料品、食材は、どんどん品目が減っていき、いつの間にか、生産が楽で、大量生産に向いている小麦、大麦、ライ麦、トウモロコシなどが生産の中心となる。これらは、機械による大型農業が可能な品目。とはいえ、社会主義体制では、農機類の品質が悪く、トラクター、コンバインが動かない、などの例も多く、収穫ができなかったりする。だから、穀物生産も徐々に減少した。
そもそも、工業製品は、品質が悪くとも価格が高く儲かるのに、農産品は、価格が低く儲けようがない・・・・だからどんどん食糧不足が深刻化するし、食材はますます品目が少なくなり、不味い食品しか残らない!
北朝鮮は、農機がないし、農機を動かすディーゼル油もない。ジャガイモ、野菜などが豊作でも、輸送用トラックの燃料もない。現地で缶詰を作るにも、缶がないし、工場に電気が来ない。トラックさえ動かない国では、全国的な「流通」は不可能です。
そういえば、日本の鶏卵が安く、物価の優等生と言われるようになったのは、アメリカ式というか、大規模鶏舎で、大量生産できるようになってからです。我々の子供の頃は、鶏卵も地元農家が作る、少量生産品で、だから高価だった。
ブルガリアでも、鶏卵は大規模鶏舎で生産していたけど、農民の意欲がないし、飼料生産がうまくいかない(これも「割り当て」で命じられた集団農場に生産意欲がないから)ので、結局は価格は高止まりしていた。パザールという集団農場用の「自由市場」では、集団農場所属の農家が「自留地(自宅周辺に認められた自家栽培用の土地)で自家生産した鶏卵が、高い価格(1個10円ほど、平均月収1万円の懐で、卵1個10円ということ。しかも小さい卵です)で売られていた。これは一応新鮮なことが多く、我々は良く買った。他方で、国営店でも卵は売られるけど、これらは大規模鶏舎生産のもので、価格は安くあるべきだが、実は、市場ものと価格差は少なかった(少しは安いけど)。卵黄が白っぽく、明らかに飼料の品質も悪いし、日光を浴びないブロイラー的鶏が産んだ、不味い卵でも、価格が変わらなかった!要するに、社会主義というのは、供給量が少ないから、価格が相対的に高くとも、品質が悪くとも、何でも売れば売れるということ。
国民は、低賃金だから、鶏卵すら高嶺の花で、偶にしか食べられない…それで政府も構わないという姿勢です。飢餓が無いように、不味いパンとか、不味すぎるソーセージ、不味いビールとかの「供給」は、何とか続いたけど、それらの「量」が確保されている限り、国民は餓死まではいかない。
北朝鮮は、小麦も足らないから、トウモロコシの粉末が主食で、その量すら、必ずしも供給できず、大量の餓死者を出してしまった。米、大麦、粟なども、十分生産できないようです。農業を個人農家の自由生産に任せないからです。中国は、この個人請負生産制に、すなわち資本主義にほんの少し譲歩してから、食糧が十分食えるようになった。北朝鮮は、未だに「部分的な資本主義化」にも踏み込めないので、食材の「量」が確保できないのです。
キューバも、東欧からの食糧援助が無くなり、食糧不足を緩和するために、都会の市民らも、公園を区割りして、自家菜園を経営できるようにした。肥料不足解消のため、ミミズを重視する「有機栽培」方式を普及させた・・・。まあ、はっきり言って、自給能力の回復ということです。北朝鮮も、自家菜園を保有させて、自給能力を増やさせれば、餓死は無くなるはずです。
ゴスプランの綴りが間違っていました:Gosplanです。
Gosudarstvoガスダールストヴォが国家、Planが計画です。
中欧も、中央の間違いでした。
英語で言えば、State Committee for Central Planning=Gospanということ。国家中央計画委員会は、各省の上に位置する最強の委員会という位置づけだった。
日本で言えば、企画庁が、各省に命令数値を提示し、各省はこの数値を達成するノルマを背負うというのが国体だった。
大蔵省の予算配分が、各省を牛耳った、という日本の戦後体制も、一種の計画経済的な弊害を伴ったともいえますし、日本も結構社会主義的であったとも言えます。とはいえ、社会主義体制の弊害の大規模さ、弊害の深刻さは、そういう国家で生活したものにしかわからないのかも。
父から聞いた話ですが、兄弟が三人いた場合、戦前は卵一個を三等分していたとの事です。黄身を長男が食べ、次男三男は白身を分け合ったそうです。九州の話です。これでは現在普通に食べられるオムライスもアイスクリームも、高嶺の花ですね。
とは言うものの、夏目漱石の弟子、内田百けんは東大生時代(1910年以降)カツレツを食べた話がありますし、地方と東京では食料事情が異なっていたのかもしれません。でも、魚は岡山のほうが良かったようです。
池波正太郎自身、小学校卒業後株屋の店員として働くのですが、資生堂パーラーでチキンライスを食べた話が出てきます。現在なら中学生にあたる子供が株屋の店員をしていた時代にも驚かされます。
戦中といえば、「ロッパの悲食記」と言う本が出ていて、戦前・戦中・戦後にロッパが食したものが記載されています。面白いのは戦中で、伝手のあるロッパは戦中とは思えないほど良い物を食べています。世間では肉が手に入らなくなったので鯨とかイルカとか食べているのですが、ロッパは肉も白米も結構食べる事ができています。酒もかなり飲んでます。
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%91%E3%81%AE%E6%82%B2%E9%A3%9F%E8%A8%98-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%8F%A4%E5%B7%9D-%E7%B7%91%E6%B3%A2/dp/4480030697
こういう話を読むと、意外に日本の戦中は政府の統制が効いていなかったような気もします。
コメもその他の穀物も無い、芋も豆も無い、でも松茸だけはなぜかうまい具合に勝手に上がってくる、というので、毎日松茸だけは口に入った、ということのようです。旨くなかった、と言っていました。確かに、松茸なんてたまに食べるからうまいのであって、毎日毎日では嫌になるかもしれません。
今となっては京都の市街地で松茸が採れるなんて信じられないことなのですけど(笑。
コメントに見る共産主義国での計画経済の実態は、実に興味深いです。日本のインテリは未だにそれを知らない者が少なくないかもしれませんね。最近の内田樹氏は、若者にマルクスを読むことを呼びかけているようですが、未だに日本で飽食しつつ、共産主義の夢を語るインテリの残党?ならば、インテリよりもノータリンにちかいでしょう。
ブルでの大規模鶏舎で生産された鶏卵のお話も驚きました。大規模鶏舎ならば日本も同じなのに、結果は正反対。環境保護運動家の中にはこの大規模鶏舎を非難する者がいますが、非現実的な夢想主義者ばかりですからね。
北朝鮮が未だに「部分的な資本主義化」にも踏み込めず、自家菜園を保有させないのは何故でしょうね?反乱防止のため人民を慢性的な飢餓状態に置いている…等のうがった見方もありますが、看板こそ共産主義でも完全な金王朝ですよね。中共でも毛沢東の血族は後継者にならない。緩衝地帯として北朝鮮は隣国に徹底利用されているような。
戦前の九州で、卵一個を三等分にする食べ方は今では信じられないお話ですね。母も戦前の子供時代、アイスクリームなど食べたことはないと言っていましたが、これでは当たり前でしょう。
このエッセイの「とんかつとカツレツ」という章で、関東大震災後、殊に豚肉が流行りだし、折衷的にトンカツと呼ばれて独立した専門店が発生するに至ったことが載っています。付け合せにはサラダ菜、キャベツ、トマトだったそうで、今と同じですね。この現象も東京が中心だったと思います。
チキンライスについても書かれていました。子供時代の池波がたまに母に連れて行ってもらった上野の松坂屋で、お子様ランチを食べたそうです。このランチには必ずチキンライスがついていました。もっとも池波は子供のころ、チキンライスが大嫌いだったとか。
エノケンは知っていますが、ロッパは知りませんでした。リンク先を見たら、戦時中のエピソードはスゴイですね。戦時中でもふぐを60人前食べたり、帝国ホテルで食事をしたり…
戦時中でも食料はあるところにはあったのでしょうか。ロッパのような大芸人は特別扱いされていたと思います。