【日韓関係】1/27の「朝鮮日報」が「韓日関係は最悪の状態にある」と報じている。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/01/27/2014012704223.html
この和田春樹という人物は、「北朝鮮現代史」(岩波新書)、「ロシア史」(山川出版)、「領土問題をどう解決するか、対決から対話へ」(平凡社新書)などを書いている。
和田春樹なる人物の詳細については、WIKIを参照されたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/和田春樹
日韓関係が最悪の状態にあるというのは、私も事実だと思う。主たる原因は安倍政権の対応のまずさにあるとも思う。
第1は、「竹島問題」でのPR不足だ。本来この紛争は国際司法裁判所に提訴し、国際法廷の判決をあおぐというのが従来の政府の方針だった。しかし、韓国政府はこれに応じなかった。裁判になれば負けるのが明らかだからだ。
だったら粘り強く「提訴」の承認を迫るか、逆に国際司法裁判所での決着に応じないことを「日本の正当性」の状況証拠として国際社会に強力にPRすべきだった。
第2は「慰安婦強制連行」問題である。ないものをないと証明するのは困難だから、「あった」とする側が、その動かぬ証拠を提出する義務がある。ところが「河野談話」の元になった資料は、吉見義明が発掘し(「従軍慰安婦」, 岩波新書)、1/14付の本メルマガで指摘したように「朝日」の辰濃哲郎記者か植村隆記者に渡し、若宮啓文記者が「大スクープ」に仕立てたものである。これについて「産経」は事実無根とし、このメルマガ1/20号の「メディア・バトル」で紹介したように「産経」が「朝日」に決闘の手袋をなげている。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140113/plc14011318010003-n1.htm
しかし、「朝日」がこの挑戦に応じる気配は、今のところない。
NHK会長の政治任用も間違いだった。品性下劣なこの男は、政権におもねってリップサービスし、自らの墓穴を掘った。辛うじて国会委員会喚問は乗り切ったが、今後が危ぶまれる。
何が「国益」かは、分からない。国とは何か、その「益」とは何かが、明白に定義されていないからだ。自己の主張を正当化し、反対者を封じるのに「国益」とか「国賊」を持ち出すのはいい加減にしてもらいたい。
「毎日」1/30の「木語」が「北朝鮮の人、安重根」というタイトルで書いている。相変わらず事実誤認の上に立った唯我独説だ。これも登録の上、ログインしないと読めないから、PDFを添付しよう。(クリック後、コーナーをドラグすれば拡大できます)
(画像4)
このコラムは「新聞はいかにウソをつき、読者を洗脳するか」という見本のようなものだ。
安重根に関しては、前に「人名辞典」(英語、日本語)に載っていないと書いたが、「大日本人名辞典」(講談社学術文庫)に記事があったので、全文を以下に現代語訳転載する。
<アンヂュウコン 安重根= 伊藤博文暗殺の下手人、朝鮮の人。明治11年平安道鎮南浦に生まれる。21歳の秋、職を求めてウラジオストックに行き、その郊外に住み、何の為すところもなく悲歌慷慨し、常に無頼の徒を集めて祖国の独立を回復しようとし、同郷の不平党と相通じて頻りに画策していた。
明治42年10月、時の枢密院議長公爵伊藤博文が密命を帯びてロシア大蔵大臣ココツェフとハルピンで会談し、秘密裏に相談して韓国を併合しようとしているという風評に接した。安はこれをもって、一死国に報じる時だと考え、電報を発して同志㝢徳淳、曹道先、劉東夏をウラジオストックに集めた。共に凶器を用意してハルピンに至り、10月26日午前9時、博文およびその随員等が列車を降りてプラットフォームに立ちロシア蔵相と並んで、整列したロシア軍の前を通過し、駅の構内から外に出ようとした瞬間に、安は突然物陰から走り出て博文を狙ってピストルを連射した。うち3弾が命中し、このため博文はホームに倒れ間もなく不帰の客となった。
安は直ちに逮捕され、その共犯である㝢、曹、劉の3人もまたロシア官憲に逮捕された。
日本政府は犯人の身柄を関東都督府地方法院に移して、裁判をおこなった。
明治43年2月14日、同法院は安重根に死刑、㝢徳淳に懲役2年、曹道先と劉東夏に各懲役1年6月の判決を下した。安の死刑は同月18日で、歳は32歳だった。(資料=「朝鮮最近史」、「法院判決文」)>
安重根の生まれた場所は「木語」氏によれば「黄海道」、『大日本人名辞典』によれば「平安道鎮南浦」。どっちが正しいか?
まず「鎮南浦」は現在の「南浦特別市」で、もちろん北朝鮮に属する。地名が変更されたのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/鎮南浦#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
黄海道は平安道の南にある「道」で、平安道の南限が「鎮南浦」である。鎮南浦の南から黄海道が始まる。安重根が生まれた時には、「―北道」、「―南道」という分県も、「南浦」という略地名も存在していなかった。「平安道」が正しく、裁判の判決文が間違っているというのなら、木語氏はその証拠を示すべきだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/平安道
「大日本人名辞典」(第11版)は昭和12年の刊で、この時には初版刊行時(1986)の編者田口卯吉(1855-1905)は故人だったが、編纂には彼の実証主義精神が貫かれ、依拠文献が明示してある。安重根は朝鮮人だから「日本人名辞典」に載るのがおかしいというのは今日の感覚で、昭和12年には日本人だったのである。
従ってどっちが正しいかは明白で、「木語」氏には、もちっと朝鮮近代史を勉強し終わるまで日韓問題について書くのを遠慮してもらいたいものだ。
韓国憲法が序文で「大韓民国臨時政府の法統を継承する」と述べているのは事実だ。この「臨時政府」が上海で結成されたのは1919年で、これが「大韓民国元年」にあたる。
金九自叙伝1)の記述では、建国後は従来の干支ではなく、これを起点とする年号が用いられている。金九は臨時政府の大統領(国務領)だった男だ。
「法統を継承する」のであれば年号も継承し、今年は「大韓民国95年」でないといけない。しかし韓国の新聞にこの表記はない。
http://www.chosun.com/
しかしながらこの政府は、金九自身が書いているように、「名前だけで、実体のない臨時政府だった」。金九は発足した臨時政府の初代「警務局長」(実体は警察、検察、裁判官、執行人を一体化したもの、一種のゲシュタポ)を務め、裏切り者と彼が考えた多くの同志を処刑し、日本に対する数々のテロを立案実行している。自叙伝を読むと、連合赤軍かアルカイダそっくりだ。つまりテロリスト集団なのである。
金九が臨時政府の首班「国務領」になったのは1926年12月である。
この「政府」は1932年1月8日の「桜田門事件」(上海から送り込まれた朝鮮人テロリストが天皇の馬車に手榴弾を投げつけた)や、同年4月29日天皇誕生日に「上海虹口公園爆破事件」(白川陸軍大将と上海居留民団長が即死、重光葵大使が片足を切断など被害甚大)を引き起こした。
しかし、臨時政府を正式に承認した国はひとつもない。従って他国との大使交換や国際会議に招かれることもなかった。臨時政府の初代大統領だった李承晩(仲間割れで辞任、米国に亡命中)は、日本降伏後アメリカ政府と折衝し非公式の支持を受けることに成功した。
さて木語氏が「安重根記念碑とセットになると意味が変わる」という「光復軍」だが、重慶に遷都した蒋介石政府の後追いで、「臨時政府」が移動したのが1938年、重慶で「韓国光復軍」が結成されたのが1940年9月で、安重根による伊藤暗殺から31年後のことだ。
その後、太平洋戦争が始まり、光復軍は中国国内で米OSS(CIAの前身)による破壊活動訓練を受けた。金九は1945年8月15日をこう記している。
「わが光復軍は、自己の任務に就きえずして戦争が終わってしまった。この戦争でわれわれが何の役割も果たしていないために、将来の国際関係において発言権が弱くなるだろう」。
おまけに「臨時政府代表」として帰国しようとすると、アメリカ側から
「ソウルにはアメリカ軍政府が成立しているから、臨時政府の入国は認められない。個人としての入国なら認める」とまでいわれている。(「白凡逸志」)
つまり「大韓民国臨時政府」なるものは、1919年の創設以来、一種の任意政治団体であって諸外国から承認された正当政府ではなかった。1952年に至るまで33年間この状態が続いたのである。
「毎日」コラムでは、末尾に「だが(北朝鮮による)光復軍への言及はなかった」と木語氏が書いているが、それは当たり前だろう。光復軍の創設者金九は強烈な反共主義者であり、かつこの軍は、北朝鮮の「抗日パルチザン」のように、実際に戦った実績があるわけではない。このことは、金九が自叙伝にも書いている。
WIKIをみると、木語氏はそうとう変な議論を過去にも繰り返している人のようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/金子秀敏
さて米政府の支援をえて1945年10月に帰国した李承晩は、「臨時政府」を守ってきた呂運亭(1947暗殺)、金九(1949暗殺)などの幹部を巧みに排除し、1948年5月に南鮮単独の国会議員選挙を行い、議会によって「大統領」(任期4年)に選出され、8月に「大韓民国樹立」宣言を発した。米軍政が解除され米軍が韓国から引き上げるのは1949年6月である。従って大韓民国政府が南朝鮮を実効支配し始めたのはこの時である。
(この関係は1945年の降伏により、日本に米軍による軍政が敷かれ、1951年9月の「サンフランシスコ講和条約」の成立まで日本に真の独立がなかったのに類似している。)
韓国と北朝鮮が国連に同時加盟を認められたのは、1991年9月である。
1950年6月には早くも北朝鮮の武力侵攻により「朝鮮戦争」が始まったので、再び米軍政と李承晩という傀儡独裁者の支配下におかれた。李承晩は憲法を改正し「初代大統領に限って再選を認める」という規程を設けた。ついで朝鮮戦争が終わり、1952年7月、臨時首都釜山に戒厳令を敷き、野党議員を逮捕監禁したなかで国会を開き、再び改憲をおこない「大統領の直接選挙制」を導入した。8月になってはじめて行われた、直接選挙による大統領選挙で李承晩は第二代大統領に当選した。
1956年5月の選挙では、また事前に議会で強引に改憲をおこない「初代大統領に限って重任を妨げない」という条項を憲法に挿入し、永久独裁の布石を打った。野党の大統領候補申翼熙は選挙中に急死し、李承晩は大統領に3選された。副大統領には野党候補張勉が当選し、9月にその暗殺未遂事件が発生している。
1960年3月の大統領選挙では、またしても対立候補が急死し、選挙戦は実質的に与党副大統領候補李起鵬と野党候補張勉の争いとなった。与党の副大統領候補は、李承晩の養子李康石の実父であった。大がかりな不正選挙が行われ、李起鵬が勝った。
ちょうど日本では「60年安保闘争」が全学連により闘われていた。これに影響されて韓国でも不正選挙の無効と李一族の独裁に反対を叫ぶ学生デモが発生した。
4月28日、李康石が実父の李起鵬とその一家を射殺し、自らも自殺するという衝撃的事件が発生した。すでに米国は「退陣しないなら、アイゼンハワー大統領の訪韓を中止し、対韓援助を再考する」という通告を突き付けていた。当時、韓国政府の国家予算の50%が米国からのODAであった。つまり「韓国は米国の傀儡国家」だったのである。5月29日、李承晩は大統領を辞任し、間もなく元アメリカ人の夫人と共にハワイに亡命した。これが韓国の「四月革命」だ2,3)。
李承晩亡き後、野党にわたった政権は混乱を極めた。翌1961年5月、韓国陸軍の朴正煕(陸軍少将)がクーデターを起こし、政権を奪取した。朴は朴槿恵現大統領の実父である。
朴正煕は機会主義者で、「日帝支配」時代には高木正」(「創氏改名」した)と名乗り、満州で陸軍士官学校に学び、陸軍中尉として関東軍に勤務した。日帝が敗北すると、「南朝鮮労働党」の党員となり金日成に忠誠を誓った。1948年10月に発生した「済州島暴動事件」では、反乱軍に加わったが逮捕され死刑を宣告されると、軍内部の共産主義者を告発する見返りに、自分の生命を助命してもらった。以後はKCIAの職についた。
それから1979年10月に朴大統領が腹心により射殺されるまで、韓国では軍事独裁政権が続いた。大統領にして5代、年数にして18年間である。以後も、⑪⑫全斗煥、⑬盧泰愚と軍事独裁政権が1992年2月、初の文民政権、金泳三大統領の登場まで続いた。
民主的な選挙により選出された大統領は、⑭金泳三、⑮金大中、⑯盧武鉉、⑰李明博、⑱朴槿恵というたった5人の文民政治家しかいない3)。任期5年で再任なしという「第9次憲法改正」は、盧泰愚時代の1987年10月に行われている。言い替えれば、韓国の民主主義にはたった20余年の歴史しかないのだ。日本でいうと1965年頃だろう。高度経済成長のただ中だった。
これがお隣の「韓国」という国の真実である。
1/29のJ-CAST NEWSが「破局に突き進む韓国メディア」というニュースを掲載している。
http://www.j-cast.com/2014/01/29195424.html?p=all
記事の下に「これからの日韓関係」について投票を募っている。ここは若い会社員がよく読む欄だから、年代差を考慮する必要があるが、「韓国とは国交断絶や経済制裁を加える必要がある」という選択肢に7割の人が投票している。(投票すれば、現在の集計結果がわかる。)
これには驚いたが、韓国済州島生まれで日本に帰化した呉善花の『なぜ<反日韓国に未来はない>のか』(小学館新書, 2013/12)にも、「(韓国とは)場合によっては関係謝絶も仕方ない」(p.253)と同じことが書いてある。なまじ日本に留学(1983)し、『スカートの風』(1990)という日本の韓国人を批判する本を書いたために、韓国での受容を拒否され次第に追いつめられ、ついに日本に帰化したが、日本国籍ゆえに親の葬式にも入国を拒否されるという仕打ちに会った。それでも普通は旧母国に対して、ここまでは書かないだろう。
「毎日」の木語氏が讃える「光復軍」の「光」とは李氏朝鮮の「栄光」のことである。李氏朝鮮に栄光などない。日本に対しては元の手先となって日本を侵略しようとしたし、600年の永きにわたり専制政治を続け鎖国した結果、近代化に取り残され西洋植民地主義の侵略にもまったく無知だった。新井白石の時代の朝鮮通信使は、朝鮮国王への返書に「五代前の国王の諱(いみな)」の漢字が使われているとして、返書持ち帰りを拒否した。
明治維新後の国書を「皇の文字が使われている」(朝鮮にとって皇帝とは中国以外にありえない)として、受け取りを拒否している。西郷を破滅させるに至る「征韓論」の起源は実にこの事件にある。
李朝末期の朝鮮に「光」などなかった。腐敗しきった王族と両班という特権階級の支配下に、98パーセントの常民、、ペクチェが圧政と身分差別に苦しんでいた。600年前高麗王朝を倒して李氏朝鮮が建国した頃には確かに「光」があった。しかし「光復」がそれを目標にしているとしたら時代錯誤も甚だしい。インダス文明も、メソポタミア文明も、エジプト文明も、殷周の文明も、古代ギリシア・ローマ文明も二度と戻らない。アセモグルとロビンソンの近著4)はそれを教えてくれる。
1)金九:「白凡逸志」, 東洋文庫, 1973
2)文京珠:「韓国現代史」, 岩波新書, 2005
3)呉善花:「なぜ<反日韓国に未来はない>のか」, 小学館新書, 2013
4)D.アセモグル& J.A.ロビンソン:「国家はなぜ衰退するのか」, 早川書房, 2013
「貴賓室を改装して、<安重根義士記念館>を開館した」と木語氏はいう。事実か?
「週刊ポスト」2/7号の報道によれば、ハルピン駅周辺の住民は誰も安重根を知らないという。記念館なるものは、小学校の教室二つ分くらいのスペースしかなく、巨大な駅の周辺を探し回ったあげく、待合室の並びにやっと見つけたという。(画像5)
とても貴賓室とは思えない。韓国メディアの報道を「木語」氏が信じただけだろう。うそと思うなら社員記者をハルピンに派遣して取材させるがよかろう。入口の看板にはハングルが書いてなくて、漢字だけである。これで韓国人の観光客が来るとは思えない。
「四つ指」を晒した安重根の肖像に何の意味があるのだろう。朴槿恵政権の差し金かもしれないが、確実に在日のイメージを悪化させるだけだろう。「四つ指」といえば、李榮薫『大韓民国の物語』(文藝春秋)に「ペクチョン(白丁)」という階級について、「牛や豚の屠畜を行い、その皮革で草履などをつくる職業人で、李朝時代には人間と見なされず姓もなく、戸籍にも登録されなかったが、1909年に日本の朝鮮統監府が戸籍を作成する際に白丁にも戸籍を与え、姓をつけた」とある。義務教育制を施行し、白丁の子供も学校に通わすようにしたところ、旧両班からボイコット運動が起こったそうだ。
安重根の政治思想の詳細は知らない。が、彼が守ろうとした「祖国の独立」とは、封建的身分階級制を前提とした「両班支配」の李氏朝鮮ではなかったのか?
「木語」氏個人の主義主張にはとやかくいわない。しかし「商品」としての紙面で、中立を忘れた一方的主張をするのなら、「朝日」若宮啓文氏と同様にソウルに行ったらどうか。
http://www.chosunonline.com/site/data/html_dir/2014/01/27/2014012704223.html
この和田春樹という人物は、「北朝鮮現代史」(岩波新書)、「ロシア史」(山川出版)、「領土問題をどう解決するか、対決から対話へ」(平凡社新書)などを書いている。
和田春樹なる人物の詳細については、WIKIを参照されたい。
http://ja.wikipedia.org/wiki/和田春樹
日韓関係が最悪の状態にあるというのは、私も事実だと思う。主たる原因は安倍政権の対応のまずさにあるとも思う。
第1は、「竹島問題」でのPR不足だ。本来この紛争は国際司法裁判所に提訴し、国際法廷の判決をあおぐというのが従来の政府の方針だった。しかし、韓国政府はこれに応じなかった。裁判になれば負けるのが明らかだからだ。
だったら粘り強く「提訴」の承認を迫るか、逆に国際司法裁判所での決着に応じないことを「日本の正当性」の状況証拠として国際社会に強力にPRすべきだった。
第2は「慰安婦強制連行」問題である。ないものをないと証明するのは困難だから、「あった」とする側が、その動かぬ証拠を提出する義務がある。ところが「河野談話」の元になった資料は、吉見義明が発掘し(「従軍慰安婦」, 岩波新書)、1/14付の本メルマガで指摘したように「朝日」の辰濃哲郎記者か植村隆記者に渡し、若宮啓文記者が「大スクープ」に仕立てたものである。これについて「産経」は事実無根とし、このメルマガ1/20号の「メディア・バトル」で紹介したように「産経」が「朝日」に決闘の手袋をなげている。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/140113/plc14011318010003-n1.htm
しかし、「朝日」がこの挑戦に応じる気配は、今のところない。
NHK会長の政治任用も間違いだった。品性下劣なこの男は、政権におもねってリップサービスし、自らの墓穴を掘った。辛うじて国会委員会喚問は乗り切ったが、今後が危ぶまれる。
何が「国益」かは、分からない。国とは何か、その「益」とは何かが、明白に定義されていないからだ。自己の主張を正当化し、反対者を封じるのに「国益」とか「国賊」を持ち出すのはいい加減にしてもらいたい。
「毎日」1/30の「木語」が「北朝鮮の人、安重根」というタイトルで書いている。相変わらず事実誤認の上に立った唯我独説だ。これも登録の上、ログインしないと読めないから、PDFを添付しよう。(クリック後、コーナーをドラグすれば拡大できます)
(画像4)
このコラムは「新聞はいかにウソをつき、読者を洗脳するか」という見本のようなものだ。
安重根に関しては、前に「人名辞典」(英語、日本語)に載っていないと書いたが、「大日本人名辞典」(講談社学術文庫)に記事があったので、全文を以下に現代語訳転載する。
<アンヂュウコン 安重根= 伊藤博文暗殺の下手人、朝鮮の人。明治11年平安道鎮南浦に生まれる。21歳の秋、職を求めてウラジオストックに行き、その郊外に住み、何の為すところもなく悲歌慷慨し、常に無頼の徒を集めて祖国の独立を回復しようとし、同郷の不平党と相通じて頻りに画策していた。
明治42年10月、時の枢密院議長公爵伊藤博文が密命を帯びてロシア大蔵大臣ココツェフとハルピンで会談し、秘密裏に相談して韓国を併合しようとしているという風評に接した。安はこれをもって、一死国に報じる時だと考え、電報を発して同志㝢徳淳、曹道先、劉東夏をウラジオストックに集めた。共に凶器を用意してハルピンに至り、10月26日午前9時、博文およびその随員等が列車を降りてプラットフォームに立ちロシア蔵相と並んで、整列したロシア軍の前を通過し、駅の構内から外に出ようとした瞬間に、安は突然物陰から走り出て博文を狙ってピストルを連射した。うち3弾が命中し、このため博文はホームに倒れ間もなく不帰の客となった。
安は直ちに逮捕され、その共犯である㝢、曹、劉の3人もまたロシア官憲に逮捕された。
日本政府は犯人の身柄を関東都督府地方法院に移して、裁判をおこなった。
明治43年2月14日、同法院は安重根に死刑、㝢徳淳に懲役2年、曹道先と劉東夏に各懲役1年6月の判決を下した。安の死刑は同月18日で、歳は32歳だった。(資料=「朝鮮最近史」、「法院判決文」)>
安重根の生まれた場所は「木語」氏によれば「黄海道」、『大日本人名辞典』によれば「平安道鎮南浦」。どっちが正しいか?
まず「鎮南浦」は現在の「南浦特別市」で、もちろん北朝鮮に属する。地名が変更されたのだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/鎮南浦#.E6.AD.B4.E5.8F.B2
黄海道は平安道の南にある「道」で、平安道の南限が「鎮南浦」である。鎮南浦の南から黄海道が始まる。安重根が生まれた時には、「―北道」、「―南道」という分県も、「南浦」という略地名も存在していなかった。「平安道」が正しく、裁判の判決文が間違っているというのなら、木語氏はその証拠を示すべきだろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/平安道
「大日本人名辞典」(第11版)は昭和12年の刊で、この時には初版刊行時(1986)の編者田口卯吉(1855-1905)は故人だったが、編纂には彼の実証主義精神が貫かれ、依拠文献が明示してある。安重根は朝鮮人だから「日本人名辞典」に載るのがおかしいというのは今日の感覚で、昭和12年には日本人だったのである。
従ってどっちが正しいかは明白で、「木語」氏には、もちっと朝鮮近代史を勉強し終わるまで日韓問題について書くのを遠慮してもらいたいものだ。
韓国憲法が序文で「大韓民国臨時政府の法統を継承する」と述べているのは事実だ。この「臨時政府」が上海で結成されたのは1919年で、これが「大韓民国元年」にあたる。
金九自叙伝1)の記述では、建国後は従来の干支ではなく、これを起点とする年号が用いられている。金九は臨時政府の大統領(国務領)だった男だ。
「法統を継承する」のであれば年号も継承し、今年は「大韓民国95年」でないといけない。しかし韓国の新聞にこの表記はない。
http://www.chosun.com/
しかしながらこの政府は、金九自身が書いているように、「名前だけで、実体のない臨時政府だった」。金九は発足した臨時政府の初代「警務局長」(実体は警察、検察、裁判官、執行人を一体化したもの、一種のゲシュタポ)を務め、裏切り者と彼が考えた多くの同志を処刑し、日本に対する数々のテロを立案実行している。自叙伝を読むと、連合赤軍かアルカイダそっくりだ。つまりテロリスト集団なのである。
金九が臨時政府の首班「国務領」になったのは1926年12月である。
この「政府」は1932年1月8日の「桜田門事件」(上海から送り込まれた朝鮮人テロリストが天皇の馬車に手榴弾を投げつけた)や、同年4月29日天皇誕生日に「上海虹口公園爆破事件」(白川陸軍大将と上海居留民団長が即死、重光葵大使が片足を切断など被害甚大)を引き起こした。
しかし、臨時政府を正式に承認した国はひとつもない。従って他国との大使交換や国際会議に招かれることもなかった。臨時政府の初代大統領だった李承晩(仲間割れで辞任、米国に亡命中)は、日本降伏後アメリカ政府と折衝し非公式の支持を受けることに成功した。
さて木語氏が「安重根記念碑とセットになると意味が変わる」という「光復軍」だが、重慶に遷都した蒋介石政府の後追いで、「臨時政府」が移動したのが1938年、重慶で「韓国光復軍」が結成されたのが1940年9月で、安重根による伊藤暗殺から31年後のことだ。
その後、太平洋戦争が始まり、光復軍は中国国内で米OSS(CIAの前身)による破壊活動訓練を受けた。金九は1945年8月15日をこう記している。
「わが光復軍は、自己の任務に就きえずして戦争が終わってしまった。この戦争でわれわれが何の役割も果たしていないために、将来の国際関係において発言権が弱くなるだろう」。
おまけに「臨時政府代表」として帰国しようとすると、アメリカ側から
「ソウルにはアメリカ軍政府が成立しているから、臨時政府の入国は認められない。個人としての入国なら認める」とまでいわれている。(「白凡逸志」)
つまり「大韓民国臨時政府」なるものは、1919年の創設以来、一種の任意政治団体であって諸外国から承認された正当政府ではなかった。1952年に至るまで33年間この状態が続いたのである。
「毎日」コラムでは、末尾に「だが(北朝鮮による)光復軍への言及はなかった」と木語氏が書いているが、それは当たり前だろう。光復軍の創設者金九は強烈な反共主義者であり、かつこの軍は、北朝鮮の「抗日パルチザン」のように、実際に戦った実績があるわけではない。このことは、金九が自叙伝にも書いている。
WIKIをみると、木語氏はそうとう変な議論を過去にも繰り返している人のようだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/金子秀敏
さて米政府の支援をえて1945年10月に帰国した李承晩は、「臨時政府」を守ってきた呂運亭(1947暗殺)、金九(1949暗殺)などの幹部を巧みに排除し、1948年5月に南鮮単独の国会議員選挙を行い、議会によって「大統領」(任期4年)に選出され、8月に「大韓民国樹立」宣言を発した。米軍政が解除され米軍が韓国から引き上げるのは1949年6月である。従って大韓民国政府が南朝鮮を実効支配し始めたのはこの時である。
(この関係は1945年の降伏により、日本に米軍による軍政が敷かれ、1951年9月の「サンフランシスコ講和条約」の成立まで日本に真の独立がなかったのに類似している。)
韓国と北朝鮮が国連に同時加盟を認められたのは、1991年9月である。
1950年6月には早くも北朝鮮の武力侵攻により「朝鮮戦争」が始まったので、再び米軍政と李承晩という傀儡独裁者の支配下におかれた。李承晩は憲法を改正し「初代大統領に限って再選を認める」という規程を設けた。ついで朝鮮戦争が終わり、1952年7月、臨時首都釜山に戒厳令を敷き、野党議員を逮捕監禁したなかで国会を開き、再び改憲をおこない「大統領の直接選挙制」を導入した。8月になってはじめて行われた、直接選挙による大統領選挙で李承晩は第二代大統領に当選した。
1956年5月の選挙では、また事前に議会で強引に改憲をおこない「初代大統領に限って重任を妨げない」という条項を憲法に挿入し、永久独裁の布石を打った。野党の大統領候補申翼熙は選挙中に急死し、李承晩は大統領に3選された。副大統領には野党候補張勉が当選し、9月にその暗殺未遂事件が発生している。
1960年3月の大統領選挙では、またしても対立候補が急死し、選挙戦は実質的に与党副大統領候補李起鵬と野党候補張勉の争いとなった。与党の副大統領候補は、李承晩の養子李康石の実父であった。大がかりな不正選挙が行われ、李起鵬が勝った。
ちょうど日本では「60年安保闘争」が全学連により闘われていた。これに影響されて韓国でも不正選挙の無効と李一族の独裁に反対を叫ぶ学生デモが発生した。
4月28日、李康石が実父の李起鵬とその一家を射殺し、自らも自殺するという衝撃的事件が発生した。すでに米国は「退陣しないなら、アイゼンハワー大統領の訪韓を中止し、対韓援助を再考する」という通告を突き付けていた。当時、韓国政府の国家予算の50%が米国からのODAであった。つまり「韓国は米国の傀儡国家」だったのである。5月29日、李承晩は大統領を辞任し、間もなく元アメリカ人の夫人と共にハワイに亡命した。これが韓国の「四月革命」だ2,3)。
李承晩亡き後、野党にわたった政権は混乱を極めた。翌1961年5月、韓国陸軍の朴正煕(陸軍少将)がクーデターを起こし、政権を奪取した。朴は朴槿恵現大統領の実父である。
朴正煕は機会主義者で、「日帝支配」時代には高木正」(「創氏改名」した)と名乗り、満州で陸軍士官学校に学び、陸軍中尉として関東軍に勤務した。日帝が敗北すると、「南朝鮮労働党」の党員となり金日成に忠誠を誓った。1948年10月に発生した「済州島暴動事件」では、反乱軍に加わったが逮捕され死刑を宣告されると、軍内部の共産主義者を告発する見返りに、自分の生命を助命してもらった。以後はKCIAの職についた。
それから1979年10月に朴大統領が腹心により射殺されるまで、韓国では軍事独裁政権が続いた。大統領にして5代、年数にして18年間である。以後も、⑪⑫全斗煥、⑬盧泰愚と軍事独裁政権が1992年2月、初の文民政権、金泳三大統領の登場まで続いた。
民主的な選挙により選出された大統領は、⑭金泳三、⑮金大中、⑯盧武鉉、⑰李明博、⑱朴槿恵というたった5人の文民政治家しかいない3)。任期5年で再任なしという「第9次憲法改正」は、盧泰愚時代の1987年10月に行われている。言い替えれば、韓国の民主主義にはたった20余年の歴史しかないのだ。日本でいうと1965年頃だろう。高度経済成長のただ中だった。
これがお隣の「韓国」という国の真実である。
1/29のJ-CAST NEWSが「破局に突き進む韓国メディア」というニュースを掲載している。
http://www.j-cast.com/2014/01/29195424.html?p=all
記事の下に「これからの日韓関係」について投票を募っている。ここは若い会社員がよく読む欄だから、年代差を考慮する必要があるが、「韓国とは国交断絶や経済制裁を加える必要がある」という選択肢に7割の人が投票している。(投票すれば、現在の集計結果がわかる。)
これには驚いたが、韓国済州島生まれで日本に帰化した呉善花の『なぜ<反日韓国に未来はない>のか』(小学館新書, 2013/12)にも、「(韓国とは)場合によっては関係謝絶も仕方ない」(p.253)と同じことが書いてある。なまじ日本に留学(1983)し、『スカートの風』(1990)という日本の韓国人を批判する本を書いたために、韓国での受容を拒否され次第に追いつめられ、ついに日本に帰化したが、日本国籍ゆえに親の葬式にも入国を拒否されるという仕打ちに会った。それでも普通は旧母国に対して、ここまでは書かないだろう。
「毎日」の木語氏が讃える「光復軍」の「光」とは李氏朝鮮の「栄光」のことである。李氏朝鮮に栄光などない。日本に対しては元の手先となって日本を侵略しようとしたし、600年の永きにわたり専制政治を続け鎖国した結果、近代化に取り残され西洋植民地主義の侵略にもまったく無知だった。新井白石の時代の朝鮮通信使は、朝鮮国王への返書に「五代前の国王の諱(いみな)」の漢字が使われているとして、返書持ち帰りを拒否した。
明治維新後の国書を「皇の文字が使われている」(朝鮮にとって皇帝とは中国以外にありえない)として、受け取りを拒否している。西郷を破滅させるに至る「征韓論」の起源は実にこの事件にある。
李朝末期の朝鮮に「光」などなかった。腐敗しきった王族と両班という特権階級の支配下に、98パーセントの常民、、ペクチェが圧政と身分差別に苦しんでいた。600年前高麗王朝を倒して李氏朝鮮が建国した頃には確かに「光」があった。しかし「光復」がそれを目標にしているとしたら時代錯誤も甚だしい。インダス文明も、メソポタミア文明も、エジプト文明も、殷周の文明も、古代ギリシア・ローマ文明も二度と戻らない。アセモグルとロビンソンの近著4)はそれを教えてくれる。
1)金九:「白凡逸志」, 東洋文庫, 1973
2)文京珠:「韓国現代史」, 岩波新書, 2005
3)呉善花:「なぜ<反日韓国に未来はない>のか」, 小学館新書, 2013
4)D.アセモグル& J.A.ロビンソン:「国家はなぜ衰退するのか」, 早川書房, 2013
「貴賓室を改装して、<安重根義士記念館>を開館した」と木語氏はいう。事実か?
「週刊ポスト」2/7号の報道によれば、ハルピン駅周辺の住民は誰も安重根を知らないという。記念館なるものは、小学校の教室二つ分くらいのスペースしかなく、巨大な駅の周辺を探し回ったあげく、待合室の並びにやっと見つけたという。(画像5)
とても貴賓室とは思えない。韓国メディアの報道を「木語」氏が信じただけだろう。うそと思うなら社員記者をハルピンに派遣して取材させるがよかろう。入口の看板にはハングルが書いてなくて、漢字だけである。これで韓国人の観光客が来るとは思えない。
「四つ指」を晒した安重根の肖像に何の意味があるのだろう。朴槿恵政権の差し金かもしれないが、確実に在日のイメージを悪化させるだけだろう。「四つ指」といえば、李榮薫『大韓民国の物語』(文藝春秋)に「ペクチョン(白丁)」という階級について、「牛や豚の屠畜を行い、その皮革で草履などをつくる職業人で、李朝時代には人間と見なされず姓もなく、戸籍にも登録されなかったが、1909年に日本の朝鮮統監府が戸籍を作成する際に白丁にも戸籍を与え、姓をつけた」とある。義務教育制を施行し、白丁の子供も学校に通わすようにしたところ、旧両班からボイコット運動が起こったそうだ。
安重根の政治思想の詳細は知らない。が、彼が守ろうとした「祖国の独立」とは、封建的身分階級制を前提とした「両班支配」の李氏朝鮮ではなかったのか?
「木語」氏個人の主義主張にはとやかくいわない。しかし「商品」としての紙面で、中立を忘れた一方的主張をするのなら、「朝日」若宮啓文氏と同様にソウルに行ったらどうか。
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