【瞼の母】16日の「産経抄」が天童荒太の『悼む人』を枕に使っている。本旨はアルジェリア邦人犠牲者の追悼と政府の秘密主義批判だ。天童のこの小説は東日本大震災で多くの人が亡くなったあとで、人気が出た。タイトルは映画「おくりびと」からの連想だろう。
最後の遺体(最高顧問)は「指輪で確認」というから、顔は銃弾か爆発で損壊されていたのだろう。バラバラだったのかも知れない。最悪の事態を想定して、DNA鑑定もできる「鑑識人」と小型装置も政府専用機で送ればよかったのに。こりゃ「ゴテゴテ内閣」だな。
危機というものは予想されていないから危機になるのであって、「想定外」を最小にして、予備力を残しておくことだ。
「危機突破内閣」は何を「危機」とらえていたのだろう。一衣帯水の隣国のことか?
死んだ人は天国へも地獄へも行かない。「追憶」の中に生きる。墓を作らない遊牧民では、馬車に写真を残すだけである。財産はそこにしかないのだから、多くの遺品を保有できないのだ。
死者との対話は容易にできる。古い書物を開き、読めばよいのである。アリストテレスは「書物を開けば昔の人と対話ができる」と書いているし、「一人、灯(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とする」のはこの上もない楽しみだ、と吉田兼好も書いている。幕末の歌人橘曙覧(あけみ)は、「楽しみはそぞろ読みゆく書(ふみ)のなかに、我とひとしき人を見しとき」、と歌った。
絵や彫刻や音楽にも、作った人の息づかいが残っている。ヒポクラテスが「いのちは短い、術は長い」といったのは、このことである。佐々木邦の「三須先生」が「地に爪痕を残せ」と生徒たちに教えた、爪痕とはそのことである。リチャード・ドーキンスがいう遺伝する文化単位、「ミーム」だ。
死後に語りかけるものはそれしかない、と現代人は知っている。だから自費出版で「自分史」を残そうとするのだ。「日経」の「私の履歴書」には多くのファンがいる。
自費出版の「文芸社」が急成長した背景にはそれがある。自費で本が出せるくらいには、日本人は豊かになっている。
「明治一代女」に「仕掛け花火に似たいのち」というくだりがある。仕掛け花火どころか、線香花火の火花にだって、同じパタンは二度とない。大宇宙137億年の歴史のなかで、生は一瞬。しかし同じ生は二度とない。だから誰にも語るに足る物語があるが、書ける人は少ない。ぜひ多くの「自分史」を残してもらいたいと思う。
しかし、それができない大部分の人には、具体的なイメージもなくて、抽象的に「悼め」といわれてもまずできない。小説「悼む人」に違和感を覚えるのは、主人公が縁もゆかりもない人の個人情報を聞き回って、勝手に「悼む」からだ。
悼まれる人はもう何も感じない。悼むのは自分のためだ。脳内にイメージがないと、悼む人にもその心が生まれない。その意味で日揮と政府の「犠牲者氏名・年齢非公開」策は大きな間違いだ。「産経」がこれを批判しているのは正しいと思う。
民主主義的な制度は情報の共有の上に成立する。報道の自由の上に保証される。またしても「非公開」を主張したのは安倍首相で、官房長官判断で公表したと「共同」、「産経」は報じている。
報じられている10人の死者のうち、「派遣会社」、「協力会社」からの出向が少なくとも3人いる。みな年齢が高い。日揮社員は5名だ。残り2名は不明。日揮の秘密主義は、ことの詳細を知られたくないからだろう。
「記憶」とは感情に支えられて成立した脳の永続的イメージのことだ。ニューロンのネットワークが保持している。電気ショックをかければリセットされる。
芝居にも映画にもなった長谷川伸の「瞼の母」のヤマ場はこうだ。
5歳の時に、生き別れとなった母を捜すために「旅人」になった「江州番場村」の忠太郎は、苦労して江戸の商家の女将になっている母親をたずねあてるが、実母はわが子であることを否認する。ヤクザが財産ねらいに来たと怖れたのだ。
がっくりとうな垂れて立ち去る忠太郎。自分に語りかける。
「考えてみりゃあ俺も馬鹿よ、幼い時に別れた生みの母は、こう瞼を上下ぴったり合わせ、思いだしゃあ絵で描くように見えてたものを、わざわざ骨を折って消してしまった」
忠太郎の脳は電気ショックを受けたも同然になった。
脚本にはさらにどんでん返しがあるが、長谷川伸論が目的ではないので省く。
お気の毒だが、日揮と政府のせいで、亡くなられた人はすぐに忘れられるだろう。
忠太郎の記憶さえリセットされたのだから。
最後の遺体(最高顧問)は「指輪で確認」というから、顔は銃弾か爆発で損壊されていたのだろう。バラバラだったのかも知れない。最悪の事態を想定して、DNA鑑定もできる「鑑識人」と小型装置も政府専用機で送ればよかったのに。こりゃ「ゴテゴテ内閣」だな。
危機というものは予想されていないから危機になるのであって、「想定外」を最小にして、予備力を残しておくことだ。
「危機突破内閣」は何を「危機」とらえていたのだろう。一衣帯水の隣国のことか?
死んだ人は天国へも地獄へも行かない。「追憶」の中に生きる。墓を作らない遊牧民では、馬車に写真を残すだけである。財産はそこにしかないのだから、多くの遺品を保有できないのだ。
死者との対話は容易にできる。古い書物を開き、読めばよいのである。アリストテレスは「書物を開けば昔の人と対話ができる」と書いているし、「一人、灯(ともしび)のもとに文(ふみ)をひろげて、見ぬ世の人を友とする」のはこの上もない楽しみだ、と吉田兼好も書いている。幕末の歌人橘曙覧(あけみ)は、「楽しみはそぞろ読みゆく書(ふみ)のなかに、我とひとしき人を見しとき」、と歌った。
絵や彫刻や音楽にも、作った人の息づかいが残っている。ヒポクラテスが「いのちは短い、術は長い」といったのは、このことである。佐々木邦の「三須先生」が「地に爪痕を残せ」と生徒たちに教えた、爪痕とはそのことである。リチャード・ドーキンスがいう遺伝する文化単位、「ミーム」だ。
死後に語りかけるものはそれしかない、と現代人は知っている。だから自費出版で「自分史」を残そうとするのだ。「日経」の「私の履歴書」には多くのファンがいる。
自費出版の「文芸社」が急成長した背景にはそれがある。自費で本が出せるくらいには、日本人は豊かになっている。
「明治一代女」に「仕掛け花火に似たいのち」というくだりがある。仕掛け花火どころか、線香花火の火花にだって、同じパタンは二度とない。大宇宙137億年の歴史のなかで、生は一瞬。しかし同じ生は二度とない。だから誰にも語るに足る物語があるが、書ける人は少ない。ぜひ多くの「自分史」を残してもらいたいと思う。
しかし、それができない大部分の人には、具体的なイメージもなくて、抽象的に「悼め」といわれてもまずできない。小説「悼む人」に違和感を覚えるのは、主人公が縁もゆかりもない人の個人情報を聞き回って、勝手に「悼む」からだ。
悼まれる人はもう何も感じない。悼むのは自分のためだ。脳内にイメージがないと、悼む人にもその心が生まれない。その意味で日揮と政府の「犠牲者氏名・年齢非公開」策は大きな間違いだ。「産経」がこれを批判しているのは正しいと思う。
民主主義的な制度は情報の共有の上に成立する。報道の自由の上に保証される。またしても「非公開」を主張したのは安倍首相で、官房長官判断で公表したと「共同」、「産経」は報じている。
報じられている10人の死者のうち、「派遣会社」、「協力会社」からの出向が少なくとも3人いる。みな年齢が高い。日揮社員は5名だ。残り2名は不明。日揮の秘密主義は、ことの詳細を知られたくないからだろう。
「記憶」とは感情に支えられて成立した脳の永続的イメージのことだ。ニューロンのネットワークが保持している。電気ショックをかければリセットされる。
芝居にも映画にもなった長谷川伸の「瞼の母」のヤマ場はこうだ。
5歳の時に、生き別れとなった母を捜すために「旅人」になった「江州番場村」の忠太郎は、苦労して江戸の商家の女将になっている母親をたずねあてるが、実母はわが子であることを否認する。ヤクザが財産ねらいに来たと怖れたのだ。
がっくりとうな垂れて立ち去る忠太郎。自分に語りかける。
「考えてみりゃあ俺も馬鹿よ、幼い時に別れた生みの母は、こう瞼を上下ぴったり合わせ、思いだしゃあ絵で描くように見えてたものを、わざわざ骨を折って消してしまった」
忠太郎の脳は電気ショックを受けたも同然になった。
脚本にはさらにどんでん返しがあるが、長谷川伸論が目的ではないので省く。
お気の毒だが、日揮と政府のせいで、亡くなられた人はすぐに忘れられるだろう。
忠太郎の記憶さえリセットされたのだから。
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