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【新体詩】難波先生より

2013-04-22 12:53:46 | 難波紘二先生
【新体詩】東大の井上哲次郎と矢田部良吉を取りあげたので、もう一人外山正一を加えた3人が明治15(1882)年に出した『新体詩抄』を取りあげる。幸いこれは原本通りの和綴じ復刻本をもっている。(昭和49年に日本近代文学館が出したもの)


 驚いたのは本に目次がない、ページ番号がない、平仮名が江戸期の崩し字であり読めない字がある、ルビが左側に振ってある、奥付に著者の出身地と「壬辰戸籍」での身分が書いてある、著者はわざわざ「巽軒居士」(井上哲次郎)、「、山(てんざん)仙士」(外山正一)、「尚今居士」(矢田部良吉)という雅号を用いている、という点だ。井上は「福岡県平民」、外山は「静岡県士族」、矢田部は「東京府士族」である。


 「新体詩」というのは、英文、英詩を日本語に翻訳し、その際に文語で七五調を採用したところにある。従来の詩が「漢詩」だったのに対抗したのである。中には創作詩も混じっている。
 ハムレット中の有名なセリフ。”To be or not to be? That is the question."は、尚今居士(矢田部)が
「ながらうべきか但しまた、ながらうべきにあらざるか、ここが思案のしどころぞ」
と訳している。福田恒在訳がこれより飛び抜けて上手いとも思えない。


 外山はクリミア戦争での「バラクラバの戦い」における英国軽騎兵の突撃を詠ったテニソン(Alfred Tennyson: 1809-1892)の有名な詩「軽騎兵の突撃(Charge of the Light Brigade)」を訳している。


 「一里半なり一里半、並びて進む一里半、死地に乗り入る六百騎…」
 この「軽騎兵の突撃(Charge of the Light Brigade)」は英国人なら誰でも知っている有名な詩だ。
(岩波文庫、平井正穂編『イギリス名詩選』を見た。テニソンの詩が3篇入っているが、この詩はない。「編」なら訳は別人のものを採用するのが普通だが、勝手に訳していて劣化している。
 ブラウニングの詩が4つ入っているが、「ピパの歌」は、上田敏の名訳を載せるのが当然だろうに…
   All's right with the world!>
 「神天に しろしめし、
  すべて世は こともなし。」(上田訳)=訳はちゃんと原文の韻を写している。そのため五五調を採用している。
 「神、天にいまし給い、
  地にはただ平和!」(平井訳)=韻律が失われている。天なる神の存在が地の平和の原因だという、原詩の論理構造の訳出に失敗している。原文のheavenの後ろの「-」はダテに付いているのではない。
 だいたい「新訳」というものは、前の人の訳よりも、絶対によいものになるのでなければ、やらない方がよい。時間と労力のムダだから。この人は英文学者だが、詩才はない。)


 1968年に米国で同名のタイトルで映画化(カーディガン卿=カーディガンの語源=を名優トレバー・ハワードが演じている)されたが、日本語タイトルは「遙かなる戦場」となっている。
 原題を知らないと、イギリス人と話ができない。「無教養な日本人」と思われるだけだ。英会話が上手であることと、中味のある会話ができることとは別だ。好むと好まざるとにかかわらず、今日の日本はグローバルな世界に生きなければいけないのだから、教養の中味もアップデートするかヴァージョンアップする必要があろう。
 人名も書名も映画のタイトルも、できるだけ原語で覚えるようにしたいものだ。


 外山は詩の自作もしていて、有名な軍歌「抜刀隊」の歌詞は彼の作だと知った。
 「我は官軍わが敵は、天地いれざる朝敵ぞ…」


 これは西南戦争の時の「田原坂の戦い」での、警視庁抜刀隊の奮戦ぶりを詠ったものである。戊辰戦争で敗れた東北諸藩の武士は新政府に入れず、明治6年の廃藩後は多く、警視庁の巡査になった。薩摩のイモ侍を征伐すると聞いて、よろこんで「官軍」となって熊本に遠征した。包囲された熊本城の救援に向かう官軍と、それを阻止しようとする西郷軍とが城の北方の峠で激突したのが、西南戦争最大の激戦となった「田原坂の戦い」である。
 乃木希典が率いる政府軍の連隊は、田原坂へ移動中に連隊旗手が倒され、敵に軍旗を奪われた。これが生涯の負い目となり、乃木は明治天皇の崩御に際して殉死した。
 「田原坂の戦い」では西郷軍の猛戦に対抗するため「警視隊」から、剣術の使い手を選抜して「抜刀隊」を組織した。この隊は会津武士が主体で「戊辰戦争の敵」とばかりに奮戦したので、民謡「田原坂」に、
 <雨は降る降る人馬は濡れる、越すに越されぬ田原坂>
 と歌われた田原坂も突破することができた。(警視庁の創設と西南戦争への出征については、山田風太郎『警視庁草紙』, ちくま文庫が面白く書いている。)


 「抜刀隊」歌は「新体詩抄」中のものを陸軍が軍歌に採用したのである。これに「お雇い外国人」のフランス人ルルーが曲をつけたものが、のち編曲されてマーチになり、今も警察庁や陸上自衛隊で利用されているそうだ。
 http://ja.wikipedia.org/wiki/抜刀隊_(軍歌)


 「新体詩抄」では、冒頭に三人がそれぞれ違う序文を書いているが、井上は漢文、矢田部は漢字・カタカナの文語文、ひとり外山のみが漢字平仮名混じりの半口語文で書いている。
 読んでみると外山の文章が一番上手いし、考え方も革新的だ。漢詩、和歌、俳句と「新体詩」を比較して論じていて、すぐれた比較文学論になっている。


 哲次郎の詩は一作しかない。あまり上手いとはいえないし、立身出世主義がみえみえだ。
 「玉の緒の歌(一名 人生の歌)」と題にある。
 「すぐれたる人 世に多し、われとても人 相同じ、勉め励まば かくならん、
 ゆめ怠らず勉めなば、長く残さん この名をば」


 当時、外山は経済学部教授、矢田部は理学部の教授で、井上だけが文学部の学生だった。立場・身分の違いが詩に表れている。この時の版元(原字は「板元」)が日本橋の丸屋善兵衛、後の「丸善」である。


 加藤周一:『日本文学史序説(上・下)』(筑摩書房, 1980)は分厚い本だから、「新体詩抄」の意義を論じているかと思ったら、言葉そのものが出てこない。それに円朝の「怪談牡丹灯籠」の原話を西洋の話と書いている。あれは中国の『聊斎志異』に類似の話がある。
 小西甚一:『日本文学史』(講談社学術文庫, 1993)も、「明治ロマン主義のひとつの源流は、西洋のロマン派文芸で、その翻訳が藤村、晩翠、鉄幹などの叙情詩から文語象徴詩にいたる新体詩の開花を基礎づけた」と書きながら、「新体詩抄」にまったく触れていない。


 だいたい「新体詩抄」は雄壮をねらったから、七五調を採用した。これは後に、諸葛孔明の死を詠った、土井晩翠の「星落秋風五丈原(ほしおつ しゅうふう ごじょうげん)」に採用されている。
 「祁山(きざん)悲秋の 風更けて、
  陣雲暗し 五丈原、
  零露(れいろ)の文(あや)は 繁くして…」(『天地有情』明治33年刊行)


 これが五七調になると、島崎藤村の「小諸なる古城のほとり」のように叙情性がつよくなる。
 「小諸なる 古城のほとり、
  雲白く 遊子悲しむ。
  緑なす はこべは萌えず、
  若草も 敷くによしなし…」(『落梅集』明治33年刊行)


 七五調で叙情を述べた藤村の「秋風の歌」は失敗作である。
 「しずかにきたる 秋風の、
  西の海より 吹き起こり、
  舞いたちさわぐ 白雲(しらくも)の、
  飛びて行くへも 見ゆるかな。」(『若菜集』,明治30年刊行)


(どうして五七調と七五調で、雰囲気が短調と長調、二拍子と三拍子ほども変わるのか不思議である。音韻学を音楽論、心理学的情緒論と関連して論じた本があったら、どなたかご教示願いたいと思う。)


 同じ文芸評論家でも
 磯貝英夫:『資料集成・日本近代文学史』(右文書院, 1968) が、
 「詩では明治15年に 井上哲次郎・外山正一・矢田部良吉の学者らが『新体詩抄』を出版して、西洋詩の翻訳と創作詩のこころみとを世に問い、明治新体詩の土台を築いた」としているのは、フェアーである。


 鷗外の『於母影(おもかげ)』(明治22年)も、明治26年頃から始まる正岡子規の和歌・俳句革新運動も、先行する「新体詩抄」がなければどうなっているかわからない。
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