ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【チビチリガマ事件】難波先生より

2017-10-02 16:30:00 | 難波紘二先生
【チビチリガマ事件】沖縄には自然洞窟が多い。多くは鍾乳洞だ。この洞窟を沖縄方言で「ガマ」という。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AC%E3%83%9E_(%E6%B4%9E%E7%AA%9F)
 1816年沖縄を探検したベイジル・ホールの「朝鮮・琉球航海記」(岩波文庫)によると、洞窟は風葬の場として利用されており、多数の白骨死体が見られたという。亀甲墓ができる前の話だ。

 今回の沖縄県読谷村のチビチリガマで生じたバンダリズム(破壊行為)は、県内の少年4人による犯行と報じられた(9/17毎日)。事件そのものは17歳前後の「不良少年」による単純な事件だ。平和公園で起こっても広島市民ならこれほど騒がないだろう。

 読谷村では、2つのガマが沖縄戦当時、住民の避難場所として使用された。
 すでに昨年8月に書いた文章だが、メディアも忘れているようなので再掲する。(烏賀陽弘道がいう前後の脈絡のない「記事の断片化」とはこれをいう。「報道の脳死」新潮新書)
<沖縄本島読谷村の波平地区で、ガマ(壕)に避難していた島民の集団自決事件が2件起きている。この二つの事件は対蹠的であるので、なぜ起こったかを考える上で重要と思い、以下に紹介する。米軍の沖縄本島上陸は1945/4/1である。沖縄への絨毯爆撃は前年10/10から開始されていた。
 その前に沖縄では県知事の命令で「17歳以下、45歳以上」の住民に対して本島北部への疎開命令が出ていた。ここは主戦場にならないからだ。3/31(米軍上陸の前日)、北谷、読谷、浦添、越来の4村長は、「北か南か」立ち退き方向をめぐって協議しているが、結論一致に至っていない。これが「ガマに立て籠もり」という住民の対応をもたらした。(『鉄の暴風』沖縄タイムス、1993)ところが同じ読谷村での事件なのに、チビチリガマとシムクガマでは事件の経過がまったく異なる。

① チビチリガマ事件=避難していた住民140人のうち、米軍上陸日の4/1に、最初に竹槍を持って出た4人が米軍の機関銃で射殺された。翌4/2に洞窟内で、元中国戦線で従軍経験のある兵士と同じく元従軍看護婦が主導して、毒薬による自決が行われた。但し二人は「出たい人は出なさい」と指示し53人が洞窟を出て米軍に投降、収容所に入れられたが生命は無事だった。実際に自決した者は83人だった。自決率は約59%である。

② シムクガマ事件=約1,000人の住民が洞窟に避難していたが、なかにハワイ帰りの住民が二人いて、「米軍は捕虜を殺さない」という彼らの説得に全員が応じ、ガマを出て米軍に投降したので死者はゼロだった。英語が通じたのも役に立ったかと思われる。

 以上のように、ほんのちょっとした情報の有無が住民の運命を左右しており、「軍命令で集団自決が行われた」というのは、曽野綾子のいうように「神話」だといえよう。>

 曽野綾子の大江健三郎「沖縄ノート」に対する実証的批判以後、沖縄戦での渡嘉敷島における「軍命令による住民の集団自決」は否定された。

  最近の書物について沖縄戦での「集団自決」の項を調べて見ると、
 「赤松大尉からの自決命令は出されていないと考えられる。」(林博史「沖縄戦と民衆」,大月書店, 2001/12)と「軍命令による集団自決」を否定している。外間守善「沖縄の歴史と文化」(中公新書、1986/4)は集団自決事件に触れていない。新崎盛暉「新版・沖縄現代史」(岩波新書、2005)も同様である。某全国紙ではないが、学者もこっそりと過去の説を修正しているのだ。

 沖縄からはサイパン、テニアン等の南洋諸島にも多くの移民が渡った。サイパンでは追いつめられた市民が「バンザイ・クリフ」から多く投身自殺している。中には父親が主導して「あきらめろ」といいながら、そろって海中に入水した一家の目撃談も残されている(青木隆「サイパンの海碧く」、『実録太平洋戦争4』中央公論社、1960)。
 この手記には洞窟に避難した乳飲み子をかかえた民間人の母親に対して、空腹に泣きわめく赤児がうるさいと、後から来た兵士たちが「ぶち殺せ」とわめき立て、夜中に赤児を絞め殺した母親が発狂する場面も出て来る。(サイパン戦は1944年6月からで、この作戦では「火炎放射器」が洞窟攻撃に使用されている。こんな新兵器を予想していなかった日本軍には大被害が出た。)

 シムクガマでは全員が投降しており、チビチリガマはサイパンと同様に全て自己責任による自殺である。米軍は「殺さないから投降しろ」と呼びかけていた。
 チビチリガマがそれほど神聖で重大な遺跡なら、読谷村はなぜ入り口に施錠できる鉄柵を設置しておかなかったのだろうか、と思う。


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