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阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【読書日記から18】難波先生より

2015-03-30 16:09:53 | 難波紘二先生
【読書日記から18】
1)L.リーフェンシュタール『ヌバ:遠い星の人びと』(新潮文庫、1986)=
 この本は「写真集」で文章は少ない。アフリカ、スーダンのコルドファン州は基本的にアラブ化されており、ヌバ族は50万人いるが文明化している。しかし南部山岳地帯には文明化していないヌバ族約1万人が独自文化のもとに暮らしているという。今日では「南スーダン」になった、この地帯にへばりついて、ヌバ族の男女を撮影・記録したものだ。
 ドイツ語原本「Die Nuba」(1982)という写真集が、国立民族学博物館(文化人類学・助教授)の福井勝義訳で、1986に「新潮文庫」写真集として出た、と書誌学的になっている。
 写真集をポケットサイズで出すという感覚が、私には理解できない。恐らく原版ネガを使わず、ドイツ語本の写真をコピーしたのだろうが、この頃はすでにコンピュータを用いた「色分解」の技法があったのに、それを使用しておらず、印刷用紙も上質アート紙でないから、くすんだ色になっている。福井の解説も「文化・民俗」を主体とした文化人類学に留まっており、進化人類学(形質人類学)的な説明がまったくないのが、不満である。
 ただ、レニの記載から彼女が日記を付けていたこと、『ヌバ』(1982)、p.13におけるスーダンのハルツームからヌバ山地までのジープとフォルクスワーゲンのマイクロバスを用いた「ヌバ探索旅行」での野営の記述が、『回想』(1987)の下巻(p.336)に再登場し、しかも細部に至るまで記述が一致しているので、記載そのものには信頼がおけると思う。
 これはやはり集大成版の写真集『Afrika』(2002)を入手して、見る必要がありそうだ。

 1964年にNYで出版された「Land and People」という地誌と民俗・民族誌に関する百科事典で第5巻「アフリカ・オーストラリアと南大平洋諸島」にある、「スーダン共和国」の記載を読んでいたら、面白い言葉を「発見」した。「有名なナイルの6つのcataractのうち5つが首都ハルツームの北にある」とあった。
 医学用語ではカタラクタは「白内障」のことだ。これは宝石の種類か、それとも特殊な都市・建築物の類か?と、分からぬままにその先を読むとwaterfallという言葉が出てきて、「ナイルの6瀑布」のこととわかった。(ところが「平凡社世界大地図帳」を見ると、このカタラクタは「急流」と書いてある。たぶん同じラテン語が医学と地学で訳語が違っているのであろう。)

 「なるほど、川の水は滝になると白く濁るから、白内障をcataractというのか」と閃いたが、医歯薬出版「医学大辞典」に語源が書いてなく、研究社「羅和辞典」には「滝、瀑布、水門、跳ね橋」は載っているが「白内障」が書いてない。
 ACDと旺文社「英和中辞典」には医学用語としての説明があり、ギリシア語の「kata-(下に)、raktes(砕ける)」に由来し、「瀑布や水晶体の混濁を意味する」とあった。白内障のことは日本の俗語では「白ぞこひ」といい、網膜に異常があり視力が落ちるものを「黒ぞこひ」と言った。後者は医学用語では「黒内障(Amaurosis)」で、眼房水の量や流路の異常による視力障害が「緑内障(Glaucoma)」である。

「白内障」の語源が「瀑布」と判明したら、黒内症と緑内障の命名法の謎も解けた。網膜の後にはメラニン色素細胞層があり、黒色をしている。水晶体の混濁は眼で見れば白く見え、網膜の視細胞が剥がれるか萎縮すれば、眼の奥は黒く見える。それで「黒内症」といい、眼房水の異常によるものは、カラフルな輝点や閃光が見えることがあるから「緑内障」と名づけたのだろう。
 おそらくラテン語のcataractaはギリシア語の「滝(現代語でKatarraktes)」をそのまま取り入れて学術用語にしたのであろう。
 「科学」という訳語の起源とその含意(コノーテーション)について、前回論じたが、白内障の学名の語源がギリシア語の「滝」だとすると、意味論的には訳語にかなりのズレがある。
 この用語はいつ頃ラテン語医書と日本医学に登場したのだろうか?医学史に詳しい順天堂大の坂井建雄先生にでも、おうかがいしたいものだ。

 さてレニの写真集に戻ると、1962年に南スーダンの「ヌバ族」を探す探検旅行に出かけている。古代エジプトの時代には「ヌビア(Nubia)」という王国があり、エジプトの南から今日のスーダン、南スーダンにかけて存在していたという。ここにはハム人の移住も行われたというが、後のローマ支配時代に西から黒人(バンツ・ネグロ)の大移住があったようだ。ヌバ(Nuba)はヌビア人と祖先が共通かも知れないが、ヌバ族自身については、この「Land & People」百科事典には書いてない。ちなみにヌバの身長は小柄であり、マサイ族とは異なるようだ。(ヘロドトス『歴史』(第2巻32章)には、この地域に住む「色の黒い小人」の記載がある。場所は白ナイルに沿う湿地帯である。)
 何しろ、1960年代まで英国=エジプト領の一部であったから、北部スーダンはアラビア人が主体で、南部の山岳地帯に「土俗宗教の部族がいくつか住んでいる」としか書いてない。

 スーダン中央部北に首都ハルツームがあり、ここでエチオピアから来た「青ナイル」とウガンダから来た「白ナイル」が合流して、「ナイル川」となる。白ナイルはスーダン南部の「ルヴェンゾリ山脈」とエチオピアの山塊の間を走り、源流はウガンダのタンガニーカ湖にある。
 白ナイルはスーダン南部で「コルドファン高原」と呼ばれる氾濫原性の湿地帯を形成している。この湿地のことを現地語で「Sudd(スッド)」というそうで、これが国名の起こりだろう。-anは「土地」を意味するアラビア語接尾語である(e.g.アフガニスタン、パキスタン)。
 ここは農耕地帯で、オスマントルコ時代と英国統治時代にダムの建設が行われ、アラビアゴムのプランテーションが開拓され、アラブ・イスラム教徒の南下があり、大部分のヌバはプランテーション労働者として働くことにより、イスラム化、文明化したが、一部(約1万人)が、ダルフール州から東に突き出た「ヌバ山脈」谷間の密林地帯に逃げ込んだのだそうだ。

 寡聞にして、ヌバ族のことはレニの本を読むまで全然知らなかった。
 レニの写真集を見ていて気づいたことがある。ゲーテは「見えるから知るのではなく、知っているから見えるのだ」と述べたが、写真も同じことだと思った。彼女は医学も栄養学も形質人類学も知らないから、貴重な光景を「ストーリー性」のある1枚の構図に収めるのに失敗している。ただすぐに「ヌバ語」を覚えて、その社会に溶け込んで行く才能には感嘆した。

 3/27やっと『ヌバ』を読み終えた、写真が多いから、見終えたというべきか。250頁たらずの文庫本なのに、夜寝る前にベッドで読んだもので、2週間くらいかかってしまったが、この間、「アフリカの縄文人」の世界を楽しんでいた。「ヌバ族」は黒人ではなく、ネグロイドとかネグリトと呼ばれる民族ではないかと思う。
 身に衣服をまとうことをせず、粘土で造った円筒形の壁の上に、藁の円錐形の屋根を載せただけの家に住み、家を囲む木製の垣をつくり、その中にわずかな野菜畑を置く。主食はモロコシ粥で、牛やヤギは飼うが、乳を利用するだけで肉は食べない。ただし狩で得た野生のけものの肉は食べる。
 訳語に「モロコシ」とあるのが、「イネ科モロコシ(Sorghum bicolor)」のことで、英語でIndian milletということを辞書で知った。中国で「高梁(こうりゃん)」と呼ぶものと同じものだそうだ。「キビだんご」のキビに近縁だが、背丈が倍の2m近くになる。トウモロコシと同様に畑作植物だそうだが、私は見たことがない。
 中尾佐助『栽培植物と農耕の起源』(岩波新書、1966/1)は名著だが、アフリカ起源の栽培植物がいっさい書いてない。(同書p.162に他書からの引用で、エジプト人が「ムギ」を刈り取っている古代壁画が掲載されているが、高さが人の背丈より高く、これはモロコシではあるまいか? 専門家のご意見をお聞きしたいものだ。)
「朝日=タイムズ・世界歴史地図」(1979/10)の「農業の起源」という地図には、北東アフリカ(スーダン、エチオピア)起源の作物として「モロコシ」と「フィンガー・キビ」があげてある。明らかにヌバ族がいた「コルドファン高原」から始まり、中国にまで伝播したものだろう。

2) E.スタイケン編:『人間家族』(冨山房、1994/4)=
 ニューヨーク近代美術館が1955年に出した写真集「The Family of Man」の翻訳出版である。確か1950年代、中学生の頃、図書室の本に、岩波写真文庫の「われら人間家族」というのを読んだような気がして、「冨山房が復刻したのか…」と思い買った本だ。
 レニの『ヌバ』に彼女がヌバ族について知ったきっかけが書いてあった。古い写真週刊誌「ステルン」で、英国の写真家ジョージ・ロジャーが撮影した「友人に肩車されたヌバのレスラー」の写真をたまたま見たのだそうだ。
 レニはヘミングウェイの旅行記『アフリカの緑の丘』を読んでから、アフリカに魅せられるようになったという。ヘミングウェイの原作は1935年出版で、翌36年に彼が志願兵として参加した「スペイン内乱」が起きているから、ドイツ語訳は戦後に出たのであろう。「新刊書」と書いているので、写真を見たのは1950年頃のことではなかろうか。
 1952年、アフリカの記録映画を製作するため、ロケハンに出かけたケニアで大きな自動車事故を起こし、ナイロビの病院に4ヶ月入院した。その時に「ステルン」の古い号でヌバ族の写真を見て、彼らに魅せられたという。
 この「肩車のヌバ・レスラー」写真は『ヌバ』第1章「ヌバとの出会い」に、ロジャー撮影の写真が転載されているが、コピーのため画質が荒れており、かつ周囲の光景が写っていない。

 スタイケン『人間家族』は写真集なので、説明が全然ない(序文は『リンカーン』で有名な作家カール・サンドバーグが書いている)。写真のキャプションも、撮影地、撮影者、掲載誌しか書いてない。だから、プリンストンの「高等研究所」(J.L. カスティ『プリンストン高等研究所物語』, 青土社、2004/12)に集まった天才たちの筆頭がアインシュタインだと知らないと、この写真の人物も見逃すかもしれない。(写真1)「高等研究所、プリンストン、撮影エルンスト・ハース、掲載誌マグナム、ヴォーグ」としか書いてないからだ。
 (写真1)
 で、その中にG.ロジャーが撮影した「撮影地コルドファン、マグナム掲載」という写真が確かにあった。(写真2)

 (写真2)
 全員丸裸で、頭髪を抜いている。臀部にステアトピギー(臀部が後に付きだし、脂肪が皮下に溜まっている)が見られる3人(右端、上の岩に右手をついている人物、左端の子どもを抱いた人物)が女であり、他は男で成人の二人は腰にベルトを巻いているが下着はつけていない。
 後の岩は人工の円柱のようで、手前の四角い穴は炉か石棺のようにも見え、古代遺跡の中かも知れない。ヌバは地下に円錐状の墓室をつくる。撮影地のコルドファンはスーダン南部にある州名である。これが「文明化していないヌバ族」であることは、まず間違いがなかろう。

 この写真集には、結婚—出産—幼児期—親子関係—友だちー仕事—老年期—死と葬式という順にいろんな国民・民族のファミリー・ヒストリーが写真で構成されている。「諍(いさか)い」や戦争と破壊の写真もある。所々に名言が付記されている。
 日本人のものとしては、
 「生まれ生まれ、生まれ生まれて…」(弘法大師)
 「…飢え以外にわれわれにとって切実なものはない」(岡倉天心)
の二つが引用されている。前者は『秘蔵宝鑰』(ひぞうほうやく)(岩波文庫)からの引用で、「誕生」の箇所で用いられている。
 後者は、「飢え」の箇所にあるが、不勉強のため出典がわからない。(「オックスフォード・引用句辞典」には<T. Okakura>の項がない。)
 ひとかけらのライ麦パンにむさぼりつく、戦後のオランダ女性市民のアップされた顔の表情を見ると、われわれがとっくに失った「ひもじい」という感覚がよく伝わってくる。撮影はCos Oorttyuys、オランダ人カメラマンだろう。掲載誌は書いてないので、NY現代美術館のオリジナル・コレクションかもしれない。

 「逆子の出産」を写した珍しい写真もあった。(写真3)
(写真3)
 へその緒の静脈がらせん状になっているのがよく分かる。このために、逆子は出産中にこれが首にからまり、窒息死(内窒息)することがあるが、産婦の股の間に立った医師は無事に赤ん坊を取り出した。(撮影地米国、撮影者ウェイン・ミラー、掲載誌記載なし)

 この写集真『人間家族』を見て、アフリカ、東南アジア、南洋、南米、中米の多くの植民地では、1950年代まではヌバ族と同じような「文明化以前の生活様式」がごく普通に見られたことを知った。
 1950年前後の日本、朝鮮、中国の人びとの写真も何枚かあるが、豊かさでは日本>朝鮮>中国の順だがすべて文明化している。これに比べて、インド、ニューギニア、赤道アフリカや赤道南米の原住民の暮らしは、文明化しておらず劣悪で悲惨である。
 写真集を見ていて、「欧米の植民地母国は収奪するだけで、果実を現地に還元していないな」と思った。英領スーダンでは、アラビア人による、ヌバ族を含む黒人奴隷の取引きが行われていて、それも写真に収められている。
 G.ロジャーの写真2やレニの写真集『ヌバ』を見て、女の尻のステアトピギー以外に、子どもの腹部膨隆が著明なのに気づいた。これは『ヌバ』の表紙に使われている、日没近くなっても行われている、ヌバ族のレスリング試合を見ている樹の上の子どもで、特に目立つ。(写真4)
(写真4)
 レニは『回想(下)』で、ヌバ族の食生活について、要旨、「食事は日の出と日没時の2回、主食はモロコシ粥で、牛以外の家畜はいない。しかし牛は死者のための生け贄として殺すだけで、その肉を食べない。牛乳は利用する。狩りで得た獣の肉や皮は利用する」と書いている。
 記載と写真を見て、「これはクワシオルコール(Kwash-I-Orkor)ではないか?」と思った。
 糖質だけで必要カロリーを摂取し、タンパク質や脂肪が欠乏すると、脂肪肝が生じて腹が膨れてくる。さらに低タンパク血症のために、皮下の浮腫や腹水貯留がおこり、下痢、成長の遅滞や精神症状も出てくる。
 従来(1960年代)「クワシオルコールの消耗病型」と呼ばれていたものは、エイズの症状と合併症にそっくりであり、エイズはウガンダ内戦で外部世界に拡散したことを考えると、ひょっとすると元はヌバ山地の風土病であった可能性も考えられる。
 (今、エボラが「エマージングウイルス」として問題になっているが、1967年、エボラ熱がヨーロッパに最初に侵入した時、感染源のアフリカ・ミドリザルはスーダンとウガンダの国境地帯の森林で捕獲されたものだった。ヌバの主要タンパク源は捕獲したアフリカ・ミドリザルだ、とレニの『ヌバ』には書かれている。ヌバも当然、このウイルスの汚染を受けているはずだが、絶滅しなかったのは免疫を獲得していたのであろうか?)(山内一也『エボラ出血熱とエマージングウイルス』、岩波科学ライブラリー、2015/2)
 つまり、ヌバ山地とかルヴェンゾリ山脈内にある現地人の小集落には、未知のウイルスや細菌による、どんな風土病があるか、まだ完全には知られていないということだ。

 さて、ヌバ族の「ポット・ベリー(腹部膨満)」の原因と考えられる、この病気クワシオルコールは、強制的に母乳栄養からモロコシ粥に移行させられた離乳期の幼児に起こりやすく、病名は「引き離された赤ん坊」という意味だという。(スワヒリ語でなく、ガーナあたりの現地語に由来するようだ。)
 私は栄養医学のことはよく知らないので、病理学からこの分野に進んだ渡邊昌さんのご意見をお聞きしたいものだ。
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1 コメント

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Unknown (Unknown)
2015-03-31 05:20:43
>Cataract
いくつか説があるようです。
"Cataract" is derived from the Latin cataracta, meaning "waterfall", and from the Ancient Greek καταρράκτης (katarrhaktēs), "down-rushing",[43] from καταράσσω (katarassō) meaning "to dash down"[44] (from kata-, "down"; arassein, "to strike, dash").[45] As rapidly running water turns white, so the term may have been used metaphorically to describe the similar appearance of mature ocular opacities. In Latin, cataracta had the alternative meaning "portcullis"[46] and the name possibly passed through French to form the English meaning "eye disease" (early 15th century), on the notion of "obstruction".[47] Early Persian physicians called the term nazul-i-ah, or "descent of the water"―vulgarised into waterfall disease or cataract―believing such blindness to be caused by an outpouring of corrupt humour into the eye.[48]
(英語版Wikipedia "cataract"より)
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