【日本版ORI】
「STAP細胞事件」のようなことの再発を防ぐには、事後の内部調査委員会だけでは不十分で「日本版ORI(研究公正局)のような常設外部調査機関が必要だと述べて来た。
「週刊文春」3/27号の記事のおかげか、「東洋経済オンライン」誌3/29日号がORIの必要性を取り上げたようだ。http://toyokeizai.net/articles/-/33565
むのたけじ「99歳一日一言」(岩波新書)10月15日の項に、
「転んだらすぐには起きるな。
何か落としていないか、落ちていないか、確かめながらゆっくり起きろ。
転ぶのも一つのチャンスだ。」、というのがある。
事件の特異性については、まだ未解明の謎が多く残されている。悔やんでも悔やみきれない事件だが、「失敗から学ぶ」というポジティブな思考が必要だろう。
「リケジョ」は講談社の登録商標だそうだ。「マイナビニュース」にある。これ登録した価値があるのか知らん。
http://news.mynavi.jp/news/2014/03/24/173/
これは完全に偏見と差別に満ちた記事だ。
理系は右脳と左脳の二重構造になっていて、夕焼けを見るときは素直に右脳で「美しい」と感じ、必要なときに左脳で、太陽光スペクトルと大気圏での吸収を考えるだけです。
つまり感性は文系といっしょ、「なぜだろう?」と考えられるところが違うだけだ。
ちなみに私は小保方晴子を「理系」だとは思わない。典型的な「文系」人間だと思う。
英国の物理学者C.P.スノウが「二つの文化と科学革命(Two Cultures: A Second Look)」(1964,みすず書房, 1967)を書いて、「文系と理系の知の統合」を呼びかけてから半世紀、ハーヴァード大の生物学者C.O.ウィルソンが「知の挑戦:科学的知性と文化的知性の統合(Consilience: The Unity of Knowledge)」(1998, 角川書店 2002)を出してからでも10年以上経つ。
食べ物の好き嫌いは身体によくないと誰でも知っているのに、この知識社会の時代に、脳の食べ物「知識」について、文科系だの理科系だのという、えり好みが許されているのがおかしいと思う。
真に知性的な人間なら、自然科学も文学もわかって当然ではないか。アリストテレスは「教養とは専門的学識はなくても、話し手の説明のうち、どこが本当でどこが本当でないかを適切に判断する能力だ」(「動物部分論」)と述べている。
テレビのいう「専門家に聞きました」があてにならないことは、未曾有の原発事故以来、身に滲みて感じたことだ。
産経の記者が「旧石器遺跡」捏造で騙された話を書いている。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140320/chb14032023070001-n1.htm
これは藤村新一のことで、場所は栃木県の遺跡かも知れない。その時も考古学会の幹部は「性善説」を持ちだして弁解した。今度もそういうだろう。
が、問題は言っていること、論文で主張されていることに、論理的整合性があるかどうかを見きわめる能力にある。それは「人を信じる」のとは別の話だ。
この事件も藤村は精神病院に入院し、墨塗りのメモが公開されただけで、真相は不明のままになった。このため今もって日本考古学への信頼は回復していない。何しろ世界的に読まれている、英国の考古学者C.レンフルーによる教科書「考古学」にも大きく取り上げられている。
2000年のあの事件でも、存在しない「旧石器遺跡」やその出土物について、論文を書き博士になった人はたくさんいた。それらの「撤回」はどうなったのか、「毎日」も続報がない。
「裸のサル」(角川文庫)で、動物学者のデスモンド・モリスが「名優は職業的嘘つきで、精神障害を来しやすい」という意味のことを書いている。
役に成りきって、名演技を見せるためには、本来の自分と別の人格にならないといけない。そこにどうも無理があるようだという。
天才的詐欺師も同様で、自分の話を自分で信じ切っているから、もう「騙している」という意識はない、ということを何かの本で読んだことがある。
「STAP細胞」事件と「神の手」事件との間には、共通点が多いように思う。
「神の手」事件の時に「日本版ORI」が存在していて、公平で透明に、徹底的調査をやっていたら、今度の事件はたぶん起こっていないと思う。
「STAP細胞事件」のようなことの再発を防ぐには、事後の内部調査委員会だけでは不十分で「日本版ORI(研究公正局)のような常設外部調査機関が必要だと述べて来た。
「週刊文春」3/27号の記事のおかげか、「東洋経済オンライン」誌3/29日号がORIの必要性を取り上げたようだ。http://toyokeizai.net/articles/-/33565
むのたけじ「99歳一日一言」(岩波新書)10月15日の項に、
「転んだらすぐには起きるな。
何か落としていないか、落ちていないか、確かめながらゆっくり起きろ。
転ぶのも一つのチャンスだ。」、というのがある。
事件の特異性については、まだ未解明の謎が多く残されている。悔やんでも悔やみきれない事件だが、「失敗から学ぶ」というポジティブな思考が必要だろう。
「リケジョ」は講談社の登録商標だそうだ。「マイナビニュース」にある。これ登録した価値があるのか知らん。
http://news.mynavi.jp/news/2014/03/24/173/
これは完全に偏見と差別に満ちた記事だ。
理系は右脳と左脳の二重構造になっていて、夕焼けを見るときは素直に右脳で「美しい」と感じ、必要なときに左脳で、太陽光スペクトルと大気圏での吸収を考えるだけです。
つまり感性は文系といっしょ、「なぜだろう?」と考えられるところが違うだけだ。
ちなみに私は小保方晴子を「理系」だとは思わない。典型的な「文系」人間だと思う。
英国の物理学者C.P.スノウが「二つの文化と科学革命(Two Cultures: A Second Look)」(1964,みすず書房, 1967)を書いて、「文系と理系の知の統合」を呼びかけてから半世紀、ハーヴァード大の生物学者C.O.ウィルソンが「知の挑戦:科学的知性と文化的知性の統合(Consilience: The Unity of Knowledge)」(1998, 角川書店 2002)を出してからでも10年以上経つ。
食べ物の好き嫌いは身体によくないと誰でも知っているのに、この知識社会の時代に、脳の食べ物「知識」について、文科系だの理科系だのという、えり好みが許されているのがおかしいと思う。
真に知性的な人間なら、自然科学も文学もわかって当然ではないか。アリストテレスは「教養とは専門的学識はなくても、話し手の説明のうち、どこが本当でどこが本当でないかを適切に判断する能力だ」(「動物部分論」)と述べている。
テレビのいう「専門家に聞きました」があてにならないことは、未曾有の原発事故以来、身に滲みて感じたことだ。
産経の記者が「旧石器遺跡」捏造で騙された話を書いている。
http://sankei.jp.msn.com/region/news/140320/chb14032023070001-n1.htm
これは藤村新一のことで、場所は栃木県の遺跡かも知れない。その時も考古学会の幹部は「性善説」を持ちだして弁解した。今度もそういうだろう。
が、問題は言っていること、論文で主張されていることに、論理的整合性があるかどうかを見きわめる能力にある。それは「人を信じる」のとは別の話だ。
この事件も藤村は精神病院に入院し、墨塗りのメモが公開されただけで、真相は不明のままになった。このため今もって日本考古学への信頼は回復していない。何しろ世界的に読まれている、英国の考古学者C.レンフルーによる教科書「考古学」にも大きく取り上げられている。
2000年のあの事件でも、存在しない「旧石器遺跡」やその出土物について、論文を書き博士になった人はたくさんいた。それらの「撤回」はどうなったのか、「毎日」も続報がない。
「裸のサル」(角川文庫)で、動物学者のデスモンド・モリスが「名優は職業的嘘つきで、精神障害を来しやすい」という意味のことを書いている。
役に成りきって、名演技を見せるためには、本来の自分と別の人格にならないといけない。そこにどうも無理があるようだという。
天才的詐欺師も同様で、自分の話を自分で信じ切っているから、もう「騙している」という意識はない、ということを何かの本で読んだことがある。
「STAP細胞」事件と「神の手」事件との間には、共通点が多いように思う。
「神の手」事件の時に「日本版ORI」が存在していて、公平で透明に、徹底的調査をやっていたら、今度の事件はたぶん起こっていないと思う。
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