ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【修復腎移植ものがたり(5)助っ人】難波先生より

2014-09-15 11:32:00 | 修復腎移植ものがたり
【修復腎移植ものがたり(5)助っ人】
 「透析患者を移植で救いたい」、男は日増しにそういう気持ちが強くなるのを感じた。学問的な業績をあげようというのではない。ただ患者をもっと楽に、日常生活が楽しめるようにしてあげたい、その気持ちだけなのだ。しかし母校の山口大学でも四国の徳島大学でもやっていない医療を、四国の田舎町、宇和島でやろうというのだから、「気違い」扱いされても仕方がなかった。
 日本最初の生体腎移植は1964年に東大病院の木本外科で行われた。しかし失敗に終わり、続く5例も失敗している。最初の成功例は1966年、京都府立医大外科の四方教授によるものだ。
 中四国では広島大第二外科が1971年に、岡山大第一外科が1974年に初めて行った。四国ではまだどこも行っていなかった。70年代の初め、中国四国地方には、岡山、広島、鳥取、山口、徳島の5大学にしか医学部がなく、移植に手を出しているのはどこも外科で、腎移植をしている泌尿器科はなかった。
 しかし男にはよき理解者があった。副院長で内科部長を兼ねている近藤俊文だ。透析の重要性にいち早く目をつけた近藤は、慢性透析はお金にはなっても、患者の福祉にはあまり貢献しないこと、根本的解決は脳死体からの腎移植であることを早くから見抜いていた。
 「万ちゃんがやる気になった以上、それをサポートするのが自分の仕事だ」、と近藤は決意した。
 腎移植を実行するには、まず動物で修練する必要がある。
 手術実験には犬がよく用いられる。1989年に日本で初めて(世界で3例目)、親子間の生体肝移植を行った島根医大第二外科助教授の永末直文は、前任地の広島赤十字病院時代に、屋上に犬小屋を設け、肝臓の部分切除実験を繰り返していた。
 しかし男は犬小屋を必要としなかった。宇和島市の保健所が捕獲した野犬は、毎週木曜日に処分されていた。そこでその日に、係の人に毎回1匹ずつ持ってきてもらったのだ。その頃、専任の病理医がいなくて病理解剖室が使用されていなかったので、剖検台を手術台にして犬の実験を行った。腎臓の摘出と自家移植の実験、二匹の犬を使っての腎臓の移植実験を繰り返して、来るべき人間への腎移植の準備をしていた。
 実験は一日の勤務が終わってから、土山と一緒に深夜12時を過ぎるまで、犬を相手に練習を繰り返した。1975(昭和50)年頃、宇和島市は毎週1回、不要犬の買い上げと野犬の捕獲をやっており、年間1,200頭余り(うち約43%が市の買い上げ)を処分していた。だから実験用の犬にはまったく不自由しなかった。
 移植手術で重要なことは三つある。
 第一はドナーとレシピエントの「組織適合抗原(HLA)」がマッチすることだ。第二は手術のメスが切れて、ミスや無駄がなく短時間に終える技能である。第三は拒絶反応を抑えるための免疫抑制剤と、感染症を防ぐための抗生剤の選択と投与量のコントロールである。これは内科出身の土山が猛勉強して担当した。
 学生時代から野球の名プレイヤーとして知られた男は、犬を使っての動物実験で、第二の問題をやすやすとクリアしてしまった。もともと手先が器用なのである。それに「両手効き」という利点もある。
 第一の問題、「組織適合性の検査」は泌尿器科の手にあまる問題だ。だがこれも、ひょんな所から解決の糸口が見つかった。広島大第二外科で腎移植を手がけていた講師の土肥雪彦の下で、「移植免疫研究室」の室長をしていた助手の福田康彦(昭和43年広島大卒)が当面の検査を引き受けてくれることになったのだ。
 福田は学生時代に野球部にいた。山口大の医学部に名選手がいるのをよく知っていて、男の友人でもあった。福田は、「第一回の移植の時は、土肥先生に頼んで一緒に行ってもらった」と回想している。
 第三の問題は、移植を受けた患者ごとに条件が異なるので、あらかじめ「正解」はない。血液と尿を頻回に検査しながら、薬を変え、量を加減するしかない。試行錯誤でマスターしていく「さじ加減」の世界である。
 たまたま近藤が土肥講師を知っていたことも幸運だった。
 こうして四国で初めての腎移植を、南予の片隅の病院で1977(昭和52)年の年末に実施することが決められた。それを男の出身校の山口大学でなく、広島大が応援するという変則的な事態が生じたのである。
 四国初の腎移植へ向けて準備は進んでいたが、先のことを考えると継続して腎移植を実施するには、院内の検査体制を充実させて、移植前に必要なHLA検査を自前でやれるようにする必要があった。
 院内で新しい手術が実施されるのを知って、必要な検査を習いたいと申し出た技師がいた。それが宮本直明(みやもとなおあき)だった。宮本は郷里が宇和島の近くで、松山の臨床検査技師学校を出た後、1973(昭和48)年から市立宇和島病院に勤務していた。副院長の近藤は宮本を東海大の辻公美(つじきみよし)教授の下に研修に派遣した。辻は移植免疫学が専門だった。広島大の福田のところにも派遣した。福田は技師だけでなくナースの教育も引き受けてくれた。
 男は五人きょうだいの長男で、末弟はもともと考古学志望だった。この少年は高校生の頃、登呂遺跡や岩宿遺跡を発掘した明治大学で考古学を勉強して、吉備地方に多い古墳を発掘するという夢を抱いていた。
 ところが1962(昭和37)年、高校2年生の時に、虫垂炎がもとで汎発性腹膜炎になった。
 急に右下腹部が痛くなり、吉永町にある、父がもと診療していた医院を受けついでいた、近所の医師に診てもらったが、「様子を見ましょう」というばかりで、一向に良くならない。
 すぐ上の兄が姫路で開業している父のところに連絡に走ってくれた。愛用のフォルクスワーゲンを駆って、急いで父親が駆けつけた。その間少年は脂汗を流して苦痛にのたうち回っていた。父は急性腹膜炎であることを診てとると、急遽 国立岡山病院に息子を入院させた。院長、副院長が集まって相談したが、原因が不明で「試験開腹」して病変部を確かめるしかない、という結論になった。腹腔鏡もない時代のことだ。
 正中部切開をさけて、右と左の脇腹にメスを入れた。すると腹腔から大量の膿が出て来た。虫垂炎が穿孔したために起きた化膿性腹膜炎だった。当時、汎発性腹膜炎は致命的疾患だった。
 2ヶ月の入院期間中はベッドに釘付けだった。九死に一生を得て、そこから回復できたこの貴重な体験が、考古学志望の少年に父親のいうことを聴いて、医師になる決意を固めさせた。少年は兄たちと同じように、吉永の小中学校から閑谷高校へと進んだが、高校は高い丘の上にあった。復学はしたものの、術後の体力低下で坂を登るのが苦しい。全身の筋肉は衰え、机について授業を受けるのも苦痛だった。そこで1年休学した。
 やがて、由緒ある閑谷高校が64年春に閉校と決まった。そのこともあり、翌63年4月、少年は隣町にある和気高校の2年生に転入した。筋肉質で小太りした現在とは似ても似つかない、やせ細った少年だった。
 その後、少年は岡山大学医学部に進み、卒業後、倉敷の総合病院で研修して内科の基本をマスターした。その上で、翌1975(昭和50)年4月母校に戻り、新島端夫(にいじまただお)教授の泌尿器科に入局した。こうして泌尿器科医廉介が生まれた。2年後の春、入局した当時の新島教授が東大教授に選ばれ大学を去った。新島はその後、前立腺がんのエキスパートとして今上天皇の主治医としても活躍する。廉介はいまでも恩師をふかく敬愛してやまない。
 1977年の末に計画されている宇和島での腎移植に、廉介が助っ人として参加する予定であることは、教室にも知れわたっていた。教室員はなんとかそれを止めさせようとした。岡山大の第一外科と広島大の第二外科は、腎移植では競争関係にあった。腎移植では広島大が岡山大に先行していた。
 新島の後をついだ岡山大卒の大森教授には、第一外科に対する遠慮もあったのだろう。腎移植に参加しないように廉介に勧告した。「眠狂四郎」という異名をもつ廉介に対して、これは逆効果だった。彼はついに医局を脱退するかたちで、兄のいる市立宇和島病院に就職してしまった。1977(昭和52)年11月のことである。目的は兄をサポートして腎移植手術に参加することだった。こうして廉介は医局と縁を切ってしまった。
 これで市立宇和島病院の泌尿器科の常勤医師は、万波誠、土山憲一、万波廉介の3人になった。これを外部から支援したのは、広島大第二外科の土肥講師と福田助手のチームだった。
 山口大卒と岡山大卒の異端医師チームを広島大が支援するというのだから、医者の世界の常識ではちょっとありえないことだ。こうして「Xデー」が近づきつつあった。(続)
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3 コメント

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Unknown (ki)
2015-09-09 18:42:29
更新せよ
返信する
更新せよ (医事)
2015-09-19 22:00:05
材料がないならわたしがあげよう。

つちやま
返信する
更新せよ (医事)
2015-09-19 22:00:41
材料がないならわたしがあげよう。

つちやま
返信する

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