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ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【イモヅル式】難波先生より

2013-07-10 12:12:29 | 難波紘二先生
【イモヅル式】これが私の情報処理法だ。

 大学院に入ったとき「情報収集処理法」の入門書を読み、京大式文献カードの使用と、「抄録」に「著者抄録」、「客観抄録」、「偏向(目的別)抄録」の3種があることを知った。


 それと論文の評価には著者、所属、掲載誌の3つが欠かせないことは、医学生時代に電子顕微鏡学の権威だった解剖学浜清教授に教わっていた。論文の数は山ほどあるので、掲載誌名と著者が名のある研究施設の所属かどうかをまずチェックしなさい、といわれた。


 論文を読むと標題、著者名、所属施設、掲載雑誌名とその巻号ページ、論文の内容概要をカードに転記する。
 さらに引用されている論文名も別のカードに転記する。こちらは所属、抄録が空欄のままである。1本の論文を読むと、カードが約10枚になり、次を読むとまたカードが増える。
 (今はこれがコンピュータでやれるようになり、ある論文が1年間に他の論文に引用された回数が「被引用指数(Citation Index=CI)」、その論文が掲載されている雑誌のランキングが「インパクト・ファクター(Inpact Factor=IF)」と呼ばれている。どちらも論文や雑誌の価値を数値で表そうという試みである。商業誌と違って、発行部数は関係ない。)


 これを繰り返していくと、同じ論文が他の著者によって何度も引用されていることが分かってくる。これは「本当に重要な論文」と「主義手法を最初に報告した論文」に分かれる。
 技術の進歩も重要だが、学問の進歩に本当に重要なのは、新しい病気の発見や疾患概念の整理である。後者の論文を主に読む。


 で、カードは何千枚も貯まった。丸善カードバインダーに100枚ずつ、項目分けして綴じてあるので、原著や総説の論文書きには大いに重宝した。カードには欄外に索引項目名がいくつか記入してあり、バインダー内部では年代順に配列してある。


 大学院時代は教室の方針で図書館でコピーした論文のコピー代は教室負担だった。ある先輩が本を丸ごとコピーして、「年間のコピー代が50万円かかった」と講師のH先生からグチを聞いたことがある。病院に出てからは、注文すると虎の門病院の図書室がコピーした論文を無料で郵送してくれた。系列の病院なので、「虎の門病院図書館」が中央図書館の役割を果たしていたのである。


 NIHの図書館は24時間開いていて、ゼロックスが何台もならんだ広いコピー室があり、本や雑誌をそこに運び、勝手にコピーすることができた。もちろん無料である。ただ待ち時間がかかるので、後にはミスター・ソーバンにカードを渡してコピーしてもらった。新着雑誌は病理部にあったし、ランチ・タイムにグループの会話で新論文が話題にも出たから、情報収集には苦労しなかった。図書館は「文献検索」のサービスもしていて、キーワードで依頼するとコンピュータ検索で過去及び最新の文献を探してくれたが、同じ病気をあつかった論文でも、病名のキーワードが違うと引っかけて来ないことがわかった。「イモヅル式検索」だと、これがない。病名は時代と国により違う。研究者は同じものと知っているが、コンピュータは知らない。


 が、カード式の情報整理はせいぜい1万枚までが限度である。紙なので追加情報を余白や裏面に書き込める利点はあるが、「ソート・セレクト」に時間がかかりすぎる。


 1982年に大学に移ってからは、日本語ワープロやMS-DOSのマイコンを利用できないかと、いろいろな機械やソフトをトライしたが、最終的にMACパソコンでMSオフィスのEXCELを使うのが一番よいという結論に達し、文献と書籍の目録はいまこれで整理している。


 EXCELは「VER.12.2.6」で、唯一の欠点はもとが英語用ソフトなので、半角でリターンキーを押すと、次の行にカーソルが飛んでしまい、次行にあった記入力文字列が消えることである。これは「取り消すー入力」で復活できるが、なんとも煩わしい。(一度EXCELをワープロとして本を書いたことがあるが、400字が1マスの限度なので、「章」の下の「項」を書くにも足りない。ただ引用文献をそのつど隣の列に書き込めるので、参考文献表が同時にできるのは便利だ。)


 日本の本には不備が多く、章末あるいは巻末に本文と対応させたかたちで引用文献を明示しているものはきわめて少ない。よって、本を読むときは、引用文献が出てくる頁を折っておき、後でメモ用紙に、必要書籍リストを作成し、AMAZONに発注する。


 こういう方法で「情報収集」をやると、思いもかけなかった事実が浮かび上がることが多い。
 和賀正樹:「熊野・被差別ブルース」(現代書館, 2010) は和歌山県新宮市春日町の被差別出身の作家中上健次が主題になっているノンフィションだ。新宮市を訪れた経験がある人にとっては、とても面白く読める本である。
 が、目次の小見出し載っていないので、雑誌「精神界」を発刊し、仏教思想の哲学への浸透をはかった清沢満之と大逆事件との関係が本文中に書いてあるとは、読みとおすまで分からなかった。


 大逆事件では24名が有罪判決を受け、死刑が17名(うち5名は特赦無期懲役に減刑)、無期懲役7名であった。
 そのうち何と6名が熊野・新宮の出身である。有名なのは新宮の医師大石誠之助(刑死)だが、死刑が他に1名。死刑から特赦により無期懲役に減刑された者が2名、無期懲役が2名いる。


 このうち「特赦無期懲役」となった高木顕明は新宮市浄泉寺(真宗大谷派)の住職で、事件摘発直前に幸徳秋水の座談会を自分の寺で開いたことから、事件に連座した。
 1910年5月に「大逆事件」の摘発が始まり、高木が逮捕されると「真宗大谷派」はただちに「高木顕明の僧籍剥脱、家族の寺からの退去」という重い処分を行った。この処分の責任者が清沢満之だという。(P.87)


 清沢満之は京都の真宗大谷派「育英教校」(後の宗教大学)の1期生として南条文雄(日本最初のサンスクリット学者)らとともに入学し、後に東京に移転した「宗教大学」の学長になっている。南条の自叙伝「懐旧録」(東洋文庫)には清沢満之との交友が述べられているが、満之の人柄や才能を非常に賞賛している。
 高木賢明は死刑から無期懲役に減刑されたものの、1914/6秋田監獄で自殺している。僧籍剥脱を苦にしたらしい。もし清沢満之がこの原因だとしたらその人物評価も変わるだろう。


 が、清沢は1903年6月に39歳で死亡しているので、1910年の高木処分に関与することはありえない。

 http://ja.wikipedia.org/wiki/清沢満之
 ここは「解放同盟」の主張をそのまま記した著者の間違いだろう。


 これは著作全体の主人公が中上健次だけでなく、解放同盟新宮支部の元支部長田畑稔がもう一人の主人公であり、宮学が「新宮の突破もの」と呼んだ、存命する田畑の口述を大いに取り入れているからだろう。(全国の主なをルポした宮学「近代の奈落」, 解放出版社には、清沢満之のことは出て来ない。)


 それはともかく、本書には高橋幸春「絶望の移民史」(毎日新聞社, 1995)が引用してあり、熊本県山鹿市旧来民(くたみ)村の被差別の住民がこぞって満州に移民し、敗戦後に集団自決した事例が挙げてある(P.132)。
 移民を多く出した県は、和歌山、沖縄、広島、熊本の4県で、「進取の気性に富む県民性のゆえに」などと、よく説明されるが、生粋の広島県人である私から見ると、広島は「樽ヘビ」といわれるくらい、先進性がなく足の引っ張り合いをしている土地柄だ。


 解放同盟の書記長小森龍邦を出したくらいだから、差別もそれに対する糾弾活動もつよい。移民の中には差別から逃れるために、海外に新天地を求めたという人たちもいるのではないか。(作家水上勉の小説に、長野県からの「満州移民」を扱った作品があるが、読んだ時期もタイトルも思い出せない。)


 私は「絶望の移民史」は読んでいないが、麻野涼名義でノベライズされた「満州<被差別>移民」(彩流社, 2007)は読んだ。フィクションになっているとはいえ、衝撃的な事実が多々書かれていた。
 「熊野・被差別ブルース」はいまは文藝春秋「編集委員室」編集委員になっている和賀さんが、何年も熊野・新宮に通い詰めて書いたものだ。その原点なりパトスはどこに由来するのだろうか、と疑問に思っていた。本書を読むとやや理由がわかった。


 1970年の「同和対策事業特別措置法」(同対法)の成立と関連があるらしい。以後、27年間に新宮市に投入された予算150億円により、かつての被差別を含む新宮市がどのように開発され変貌を遂げたかが書きこまれており、もうひとつの物語になっている。
 これにからむ土建業者や市会議員の動きもちゃんと書かれている。


 「地区」に指定されるとその地区に住んでいる住民にはであってもなくても、健康保険料の減額などメリットがあった。「筆者の両親」は解同の人と親しかった関係で何年間か、その恩恵を受けたと回想する、とある(P.164)。
 同じ地区でも、「地区指定」を拒否したところもあるという。差別が強化されると考えたからだ。
 由緒正しい地区の出生者には「①住宅の新築・改築、宅地購入 ②奨学金 ③事業への融資・助成」などの援助が与えられた。
 地区認定も家族認定も申請に基づき行政が決定した。
 このほか、新宮市の地形描写にも第三者ではできないような書き方が認められる。


 JR紀勢線に乗り、新宮駅で降りると駅舎の裏側(西側)が旧地区の春日町で、その西に天然記念物の「浮島」を擁する浮島町がある。春日地区の東側JR線の向こうに「徐福の墓」公園がある。徐福伝説は沖縄にも台湾にもあるから、本物かどうかはしらない。
 かつてこの浮島と春日町の間には「永山」とか「臥龍山」と称する南北に延びた丘陵があり、この細長い丘の西側に浮島があり、丘の東側斜面に非差別民の村があり、その東に水田地帯が広がっていた。臥竜山が新宮と熊野地との境界をなしていたという。(橘南𧮾「東西遊記」東洋文庫、は山形大沼池の浮島については書いているが、徐福の碑について書いているから新宮を訪問したことは確かなのだが、新宮の浮島について記載がない。)


 JR紀勢線はもと大正2年に「新宮鉄道」(大阪汽船)として、那智勝浦と新宮の間に開業した。ターミナルの新宮駅が春日地区の北東に設けられ、列車は臥竜山沿いに南東に向かって走り、那智勝浦に向かった。日陰者の春日地区は駅前となり、「駅前本通り」が発展した。
 ところが昭和13年、新宮鉄道は国有化され「中勢線」になるとともに、貨物駅新設のため駅舎が移転し、駅の玄関は東つまり徐福の墓のある方向を向くことになった。春日地区は駅裏になった。


 北山村の筏流しが女郎を買った遊廓は、明治時代には新宮のはずれ速玉神社のそばにあったが、新宮鉄道の開業に伴い駅から近い「浮島」のそばに移転してきた。大正期には11軒の妓楼があったという(P.77-78)。


 ところがこの「臥竜山」は今は無い。1970年成立の「同対法」を利用して、新宮市が地主から買い取り、丸ごと削り取って都市開発に利用したからだ。整地された跡地に、用の住宅団地と広い駐車場(今はスーパーがある)、市役所などが作られた。残土を沼地の埋め立てに使ったので、伏流水の減少と生活排水の流入により池水が汚染され、浮島の生態系が脅かされることになった。


 読み終えた後、各章の末尾に付いている「注、参考文献」から逆引きできるように、原文のある頁番号を注の上に記入した。
 地図が4枚、写真が45枚載っているが、番号がふってないので番号を付け、図写真リストを作り、頁番号と対応させた。
 これらの作業に半日以上かかったが、おかげで発注すべき本約10冊を選ぶことができ、さらに「能城屋(のきや)」、「丹頂鶴」など新宮の現代史を読み解くキーワードの索引もつくれた。こうしておくと、うろ覚えでも「あの本に書いてあったはず」と思い出せれば、必要な箇所をすぐに開けるのである。
 写真45は最後の写真で新宮の小学校で1982年に撮影されたもの。右端に中上健次、左端に一眼レフを首からさげた著者が写っている。この時、中上は32歳だから、和賀さんは20代の後半だろう。


 長々と書いたが、こうして本の内容を分析して行くと、思いがけない他書との内的関連などが発見でき、新しい知見につながる。それが私の「イモヅル式情報整理法」である。


 それにしても参考文献一覧を掲げ本文との対応をつけることと索引を充実させることはやってほしいと思う。
 キンドルで夏目漱石「こころ」を読み終えつつあるが、辞書機能がついているし、メモが記入できるし、「ハイライト」という項目があって他の人が感動した箇所がわかるようになっている。もちろん索引機能もある。
 つまり電子ブックはいまや紙本を凌駕しつつある。
 これに対抗するには、紙本に「付加価値」をつけることが必要だろう。買って手元に保存したいと思わせるような…
 さもないとすぐにブックオフかAMAZONの中古に流れるから、新刊本はますます売れなくなる。
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