ある宇和島市議会議員のトレーニング

阪神大震災支援で動きの悪い体に気づいてトレーニングを始め、いつのまにかトライアスリートになってしまった私。

【久しぶりの東京】難波先生より

2013-01-30 12:06:34 | 難波紘二先生
【久しぶりの東京】高校の寮の同窓会をやるというので1泊2日で東京に行って来た。
 この寮は1957年に、今広大病院がある敷地のはずれに作られ、我々がその一期生だ。
 水主町にあって原爆で消失した県庁が、赤レンガの元の被服廠建物を使用していて、医学部はまだ呉市広町から移転していなかった。
 まあ、寮の定員補充のため、田舎中学生の私なんぞは合格したようなもの。


 「国鉄宇品線」があり、「上大河」という駅があった。そばに消防署があり、後にそれが移転した後に「原爆放射能医学研究所」が作られた。一帯が国有地で、焼け跡が残っていて、コンクリートの割れ目からペンペン草が茂っていた。
 ここの古木材を使用した木造二階建ての寮で3年を過ごし、歩いて千田町にあった高校に通い、1960年に大学の教養部に進学し、「60年安保」で活躍した結果、3年もかけて医学部に進学したら、もとの「霞町」に逆戻りした。
 県庁がお城のそばに移転し、その後に医学部が移ってきていたのだ。ここで学部4年とインターン1年と大学院4年を過ごしたので、私の青春時代は「霞町」と切り離せない。どぶ川があって蚊が多く「蚊住み町」と呼んでいた。


 27日(日)の16:00からという案内だったので、利用するANAの便の関係で朝の飛行機に乗った。
宿は会場の「NHK青山荘」を頼もうとしたら、「満室です」ということだったので、定宿の「KKR東京」を予約した。翌日「丸の内丸善」で本を探すにはここが便利がよい。



 前、KKRのある竹橋から神田駅まで歩いたことがあるので、「羽田からモノレールで行き、JR神田駅で降りて歩こう」と思った。が、ビルが林立して見通しが利かず、方向がわからなくなった。しかし神田駅近くは「スラム化」している。千代田区は「路上喫煙禁止」なのにやたらと吸い殻が目立つし、街路樹の根元に弁当ガラが山になっている。


 で、地下鉄東西線に乗って大手町の「産経ビル」前でおり、お堀端に向かって歩いたら、NTTビルの裏のビルの谷間に「平将門の首塚」があった。「あれは確か、大蔵省の裏庭にあったはずだが」と思いつつも、予定があるので「明日ゆっくり見よう、と先を急いだ。


 チェックインして部屋に荷物を置き、ノートPCをLAN接続しようとしたが、MACはつながらないことがわかった。係が来てくれたが、WINは知っていてもMACは知らない。こういうケースは前に1回あったきりだというから、役人にはMACユーザが少ないのだろう。青山「表参道」への地下鉄ルートを聞いたら、「東西線に乗り九段下で半蔵門線乗り換え」と教えてくれた。
 乗ってみると「永田町ー青山一丁目」の次ではないか。


 地下鉄駅から歩いて3分足らずのところ、通りを少し入ったところに会場の建物があった。表を広くとってあり、ゆったりした瀟洒な建物だ。受付に1級下のTと会場を手配した8級下の元NHKのOがいる。「先輩の宿はここに予約してあります」という。同期の幹事Sにメールで予約を頼んだら、「自分で予約してくれ」といわれ、そのままになっていたのが、どこかで混線したらしい。チェックインした後だし、もう変えられないので、「損金は払うよ」というが「酔っぱらって泊まりたい」と言い出すやつが出るかもしれないので、それはいいということだった。


「向学寮」という男子寮は13年間続き、その後廃止になった。だから同窓生は減るばかりで増えない。
 50年ぶりに会うというのが何人もいる。


 印象を述べると、
 1)約70名の出席者のうち、喉頭がんで手術した男が2名もいる。1級下で「日本興業銀行」(いま「みずほ銀行」)で鳴らしたOという男が、のどに手をあてて孔を塞いで食道発声でしゃべるのは、見ていても聞いていても痛々しかった。
 今はよい「人口声帯」があるのだが、術後すぐに取り付けリハビリをしないとダメである。
 血液内科の京大U教授もリハビリに失敗して、声を失った。


 もう一人大阪から来た男は声は出るのだが、放射線療法のせいか、すごいしわがれ声である。
 
 いずれにしても「70人に2人」というのは、人口10万人当たり2.8万人になるわけで、異常に高い。いずれも東京、大阪という大気汚染の強いところで働いていた。同級生では寮生ではないが、「資生堂」にいたOが肺がんで死んだ。これも東京組だ。
 (翌日、大手町を散歩したが、眼がチカチカした。福富町の田舎にくらべ、大気汚染がひどい。肺腺がんが増えるだろう。)


 2)最後の寮生はわれわれより13歳若いのだが、外観では老け方に個人差が目立つ。悪ガキだった同期のMなんかは、どうかすると50代の後半に見えることもある。10級くらい下でも、どうかすると70代に見えるやつもいる。
 この「老化の個人差」がどうして生まれるのか、研究したら面白いだろう。


 3)1級下のMという東大医学部に行った男と本当に50余年ぶりに会った。1969年の大学紛争は「大学進学率が20%を超えたのに、受け入れる側の大学がそれに対応できていない」というところに根本原因があるので、紛争の発端はなんであってもよかった。


 が実際には、医学生による「インターン制度廃止をもとめる青医連運動」が背景にあり、1968年1月の東大医学部紛争から始まった。私の記憶だと、きっかけになったのは、この男が第二内科の春日医局長に殴られ、メガネが壊れたのが始まりだ。
 医学部生たちはインターン制廃止を要求して、1月末から無期限ストライキに入っていた。


 上田病院長を路上で見つけた医学生たちが「団交」を要求したところ、病院会議室で待つようにと指示しておいて、病院長そのままが逃亡した。それで学生たちが二内科教授室に押しかけたところ、春日医局長と学生とがもみ合いになり、その際に学生のメガネが壊れた。
 憤激した学生たちが、医局長を翌朝まで医局に監禁し、謝罪文を書かせた。


 これに対して医学部は監禁に関与したとして学生、研修医17名を処分したが、うち1名はアリバイがあり、誤認処分だった。
 憤激した「医学部全共闘」は図書館のある医学部中央館を封鎖した、医学部執行部の謝罪がないまま、事態はさらに医学部研究棟の封鎖、安田講堂の封鎖と全学にエスカレートして行った。翌1969年3月の東大入試は中止となった。
 だからこの年は東大には入学生がいない。他の大学に流れるか、「一浪」して東大に入っている。(以上「一億人の昭和史8」, 毎日新聞社掲載の, 「東大紛争の底流」山根至二手記による)


 このMと、やはり1級下でモスクワ大学に行った、Fという男の消息がその後わからなかったので、気になっていたがやっと会えた。Mは藤沢で精神科のクリニックを開いているということがわかった。
 患者が多くて週5日診療しているというから大変だ。


 モスクワに行ったFのことを聞いたら「精神を病んで」千葉にいるとのこと。夢の国ソ連が崩壊したのだから、無理はないか。


 ルーペでないと読めない字で賀状をよこした2級下のUにも会った。本人は「本文を拡大する方法がわからないので、そのまま印刷しました」といっていたが、それは信じられない。が、笑いながら話していたので「うつ」は良くなったのだろうと思った。


 どういうわけか、学生運動をやっていた医学生には精神科に行ったのが多い。 
 東大の島成郎、広島大の同級生では公衆衛生の研究生になったあと、精神科を開業したM、この東大のMもそうだ。
 私は博士号ボイコット運動に同調せず、病理学の大学院に進み、その際に「指導者」を辞したので精神科の医者にはならなかった。まあ、みな「それぞれの戦後」を迎えたわけだ。


 二次会に同級生のM, I,幹事のTにこのMと5人で行き、飲み直しになった。赤ワイン2本を開けたのだが、途中でMの態度が豹変し、こちらに罵詈雑言を浴びせだしたのには弱った。
 彼がパーティの挨拶で、「プシ(psy)」という一般には通じない業界用語を使ったので、会話で「精神科には自噴がプシコパート(psychopate)ではないかと思ってその道を選んだ」という人も多いといったのが、気に触ったようだ。なに、ヒッチコックの映画「サイコ」だって、この略誤の英語読みだ。
 そしたら「プシは差別用語だ」といいだした。わけがわからん。


 同級生の別のMが、「ボランティアーに行っていたが、俺の趣味はベンツを維持すること。それにガソリン代を出すというから、嫌になってやめた」というから、変な話と思い。
 「呉れるものはもらっておいたら良いんじゃない。交通費を支払いましょうというので、別に君のプライドを傷つける話じゃないと思うけど」と言ったら、Mが突然怒鳴りだした。人格が豹変したようだ。
 「あんたは金で転ぶ汚いやつだ、医業を放棄した評論家だ」とか、言いたい放題。


 Tが気を利かして勘定にしてくれたから、私も実験をしてみた。
 残り4人が支払い各1000円で、私が残額を負担しようと申し出た。
 反対意見ゼロ。
 何だ、実験費わずか1万円で結果が出たではないか。
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