【製塩小史】1/23号【欠陥製本】の項で「清めの塩」の起源を論じ、古代に塩が神に捧げられた例がないと論じた。書庫で別の本を探していたらひょっこり宮本常市「塩の道」(講談社学術文庫)が出て来た。それによると「塩業史の研究」というものは、明治38年に塩の専売制が始まり、専売局が「大日本塩業全書」をまとめたのが嚆矢だそうだ。
宮本のパトロンだった渋沢敬三が「塩俗問答集」(1939)をまとめたのが、「塩の民俗学」の始まりだそうだ。この頃はすでに塩・酒・タバコは専売制で、戦後も1960年頃まではそうだった。いまはどこでも売っている。
その頃、塩は大半が「入り浜式塩田」を用いて、瀬戸内海沿岸で作られていた。今は福山市に属している松永町は塩田で有名なところで、父が残した8ミリ映画フィルムに昭和の初めの松永での製塩風景が記録されている。この方法では塩田の海水を天日で蒸発させて濃縮する(「鹹水(かんすい)」を作る)間に、雨が降っては困るので、瀬戸内の気候が製塩に適しているのだと、これは中学校で習った。その後、製塩方式が塩田から「イオン交換樹脂法」に変わったため塩田は姿を消した。
で、その塩と神の関係だが、宮本は「穀物の神様は沢山あるのに、塩の神様はいないし、塩を神に捧げた例もない」と書いている。
製塩は最初土器あるいは粘土と焼いた貝殻の粉を混ぜた「土釜」、次いで鉄釜で鹹水を蒸発させて塩の結晶を取る、という方法でおこなわれた。前者によると泥粒混じりの塩が、後者によると鉄さび色をした塩ができる。これらは神に捧げられない。
その次に登場したのが、「石窯」で板状の片麻岩を粘土などで接着した大きな釜で、これで純粋な白い塩を生産することがはじめて可能になった。時代は鎌倉時代であろうという。
宮本常市は考古学者でも歴史学者でもなく、「常民誌」の研究者だから、これ以上を求めても仕方がない。要は、古事記、日本書紀、古語拾遺が成立した奈良時代には「白い塩」はなかった。主な神社仏閣が成立したのちに、初めて白くて清浄な塩が簡単に入手できるようになった。だから「浄めの塩」は後から生まれたのだろう。
奈良平安時代の「官職要解」(和田英松著、講談社学術文庫)を見ても、「御膳所」、「酒司(みきのつかさ)」という官職はあるが、塩に関する専門職は見あたらない。
村上重良「日本宗教事典」(講談社学術文庫)にも、「塩」、「浄め」の項目がない。
記憶によると、昔の田舎では葬儀は村の「講中」が総出でおこなった。棺桶つくりから焼き場に運び、薪で焼き、遺骨を拾うまで全部、講中のメンバーが担当した。あの頃「浄めの塩」などなかった。広島市でも、町の葬儀は、町内会がおこなったが、高度成長時代はまだ寺と檀家のつながりがあった。だから葬家には檀那寺の坊さんが来て、仮に葬儀社がからんでもそんなにぼられるとか、「演出」が入る要素はなかった。
初めて「浄めの塩」に接したのはいつだろうか? 高校の同級生が最初に亡くなった1985年、とある葬祭会館での葬儀だったと記憶する。
相撲の「撒き塩」はいつから始まったのだろうか?あれは何のためにやるのだろう。
「塩」の前につく熟語で「広辞苑」に載っているものは「盛り塩」しかない。これは<料理店・寄席などで縁起を祝って門口に塩を盛ること。また、その塩。口塩。>とある。
「塩を撒く」という表現は、美空ひばりの「お祭りマンボ」(原六朗 作詞・作曲, 1952/8)に出てくる。これは神田明神の祭礼を唄ったものかと思われるが、「景気をつけろ、塩まいておくれ」という一節がある。
山本夏彦の随筆集に、戦争中の講演旅行の際、宿で一同が酒盛りになり、「性欲の処理には金がかかってかなわん」という猥談をしていたところ、哲学者の三木清が「俺は二階に上がって、物干し台から隣家の若夫婦の営みを見てマスをかくから一文もかからん」という話をしたもので、今東光が怒って「おい、塩まけ!」と怒鳴ったという話が出てくる。
こうしてみると、「塩を撒く」という表現は戦前からあり、まいた場所を浄める(お祭りでは御輿の通り道を浄める)あるいはその場の雰囲気を浄化する象徴的行為だったと推察される。
「葬式」を不浄な行為と見れば、それを浄化するものとしての「浄めの塩」は論理的にはつながる。
江戸時代の人は、歯ブラシの代わりに「総楊子(ふさようじ)」という柳の枝の端をブラシ状にしたものを用いたらしい。その際に塩を歯磨き粉として用いた。あるいはこれと関係があるかもしれない。貝原益軒(1630-1714)は「塩を用いて指で歯を磨り磨くことが重要で、楊子は必要ない」と書いている。(「養生訓」, 岩波文庫)世人が総楊子を使っているから、「必要ない」と書いたのであろう。
中国に「塩鉄論」という書物があるくらいだから、塩はかつて貴重品だった。浅野内匠頭の赤穂藩は製塩業で豊かだった。吉良上野介は、それにしてはまいないがケチだと思ったのが、殿中刃傷事件の発端だという説もある。ともかく江戸中期には歯磨きに使えるくらいに、塩は安価になってきた。そのあたりから「盛り塩」とか相撲の「撒き塩」、「浄めの塩」が出現するのではあるまいかと、さしたる根拠もなく推測している。
宮本のパトロンだった渋沢敬三が「塩俗問答集」(1939)をまとめたのが、「塩の民俗学」の始まりだそうだ。この頃はすでに塩・酒・タバコは専売制で、戦後も1960年頃まではそうだった。いまはどこでも売っている。
その頃、塩は大半が「入り浜式塩田」を用いて、瀬戸内海沿岸で作られていた。今は福山市に属している松永町は塩田で有名なところで、父が残した8ミリ映画フィルムに昭和の初めの松永での製塩風景が記録されている。この方法では塩田の海水を天日で蒸発させて濃縮する(「鹹水(かんすい)」を作る)間に、雨が降っては困るので、瀬戸内の気候が製塩に適しているのだと、これは中学校で習った。その後、製塩方式が塩田から「イオン交換樹脂法」に変わったため塩田は姿を消した。
で、その塩と神の関係だが、宮本は「穀物の神様は沢山あるのに、塩の神様はいないし、塩を神に捧げた例もない」と書いている。
製塩は最初土器あるいは粘土と焼いた貝殻の粉を混ぜた「土釜」、次いで鉄釜で鹹水を蒸発させて塩の結晶を取る、という方法でおこなわれた。前者によると泥粒混じりの塩が、後者によると鉄さび色をした塩ができる。これらは神に捧げられない。
その次に登場したのが、「石窯」で板状の片麻岩を粘土などで接着した大きな釜で、これで純粋な白い塩を生産することがはじめて可能になった。時代は鎌倉時代であろうという。
宮本常市は考古学者でも歴史学者でもなく、「常民誌」の研究者だから、これ以上を求めても仕方がない。要は、古事記、日本書紀、古語拾遺が成立した奈良時代には「白い塩」はなかった。主な神社仏閣が成立したのちに、初めて白くて清浄な塩が簡単に入手できるようになった。だから「浄めの塩」は後から生まれたのだろう。
奈良平安時代の「官職要解」(和田英松著、講談社学術文庫)を見ても、「御膳所」、「酒司(みきのつかさ)」という官職はあるが、塩に関する専門職は見あたらない。
村上重良「日本宗教事典」(講談社学術文庫)にも、「塩」、「浄め」の項目がない。
記憶によると、昔の田舎では葬儀は村の「講中」が総出でおこなった。棺桶つくりから焼き場に運び、薪で焼き、遺骨を拾うまで全部、講中のメンバーが担当した。あの頃「浄めの塩」などなかった。広島市でも、町の葬儀は、町内会がおこなったが、高度成長時代はまだ寺と檀家のつながりがあった。だから葬家には檀那寺の坊さんが来て、仮に葬儀社がからんでもそんなにぼられるとか、「演出」が入る要素はなかった。
初めて「浄めの塩」に接したのはいつだろうか? 高校の同級生が最初に亡くなった1985年、とある葬祭会館での葬儀だったと記憶する。
相撲の「撒き塩」はいつから始まったのだろうか?あれは何のためにやるのだろう。
「塩」の前につく熟語で「広辞苑」に載っているものは「盛り塩」しかない。これは<料理店・寄席などで縁起を祝って門口に塩を盛ること。また、その塩。口塩。>とある。
「塩を撒く」という表現は、美空ひばりの「お祭りマンボ」(原六朗 作詞・作曲, 1952/8)に出てくる。これは神田明神の祭礼を唄ったものかと思われるが、「景気をつけろ、塩まいておくれ」という一節がある。
山本夏彦の随筆集に、戦争中の講演旅行の際、宿で一同が酒盛りになり、「性欲の処理には金がかかってかなわん」という猥談をしていたところ、哲学者の三木清が「俺は二階に上がって、物干し台から隣家の若夫婦の営みを見てマスをかくから一文もかからん」という話をしたもので、今東光が怒って「おい、塩まけ!」と怒鳴ったという話が出てくる。
こうしてみると、「塩を撒く」という表現は戦前からあり、まいた場所を浄める(お祭りでは御輿の通り道を浄める)あるいはその場の雰囲気を浄化する象徴的行為だったと推察される。
「葬式」を不浄な行為と見れば、それを浄化するものとしての「浄めの塩」は論理的にはつながる。
江戸時代の人は、歯ブラシの代わりに「総楊子(ふさようじ)」という柳の枝の端をブラシ状にしたものを用いたらしい。その際に塩を歯磨き粉として用いた。あるいはこれと関係があるかもしれない。貝原益軒(1630-1714)は「塩を用いて指で歯を磨り磨くことが重要で、楊子は必要ない」と書いている。(「養生訓」, 岩波文庫)世人が総楊子を使っているから、「必要ない」と書いたのであろう。
中国に「塩鉄論」という書物があるくらいだから、塩はかつて貴重品だった。浅野内匠頭の赤穂藩は製塩業で豊かだった。吉良上野介は、それにしてはまいないがケチだと思ったのが、殿中刃傷事件の発端だという説もある。ともかく江戸中期には歯磨きに使えるくらいに、塩は安価になってきた。そのあたりから「盛り塩」とか相撲の「撒き塩」、「浄めの塩」が出現するのではあるまいかと、さしたる根拠もなく推測している。
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