この懐かしき本たちよ!

まだ私の手元に残っている懐かしい本とそれにまつわるいろいろな思い出、その他、とりとめのない思いを書き綴りたい。

#725 「禅会 夏季接心会(昭和33年)」

2011年02月24日 | 宗教 思想 科学

私も参加した昭和33年(1958年夏)の私達の会の接心会の記事が「龍」の創刊号に載っているのを改めて読んで見た。

故飯島一玄先輩が書いておられる。

 

昭和33年(1958年)7月28日の夜坐から開始して、7月31日正午で終了している。3泊4日のスケジュールだった。

日程は次のようだったとある。

 

1.開静  午前3時

1.粥座    4時半

1.参堂    5時

1.日天掃除  7時―8時

1.講座    8時

1.斉座   11時

1.作務  午後1時―2時

1.参堂    2時半

1.薬石    4時半  

1.喚鐘    7時半

1.茶礼    8時半

1.解定    9時

 

「開静」とは起床のこと。

午前3時に起きていたのである。

先輩の直日に「起きろ!」と一声怒鳴られて全員がすぐ起きた。

井戸まで駈けて行き、水で顔をこするだけで、すぐ自分の単に(席)に戻り、坐禅を始めた。

「粥座」とは朝食

 お粥に梅干しと沢庵 作法が厳しかった。お経を何度も唱え、それ以外無言で食事をした。

 斉座は昼食

 薬石は夕食

 解定は就寝

 布団を柏餅のように丸めてその中に入って眠った。

 日程にはないが、解定のあと、多くの人は夜坐といって夜の屋外に出て坐禅をした・

記録によれば、三日目は同学年の坂本健君と私が典座を担当している。円覚寺の方のご指導を受けながらであったが。

典座とは、炊事当番であり、接心での重要な役目の一つであり、炊事をすることも坐禅するのと同じ価値のある修行とみなされている。

どのように炊事し、どのように給仕したか、ほとんど忘れてしまったが、少しづつ思い出している。

典座以外は食事のときと作務のとき以外はほとんどの時間を坐禅していた。

 

覚えているのは、直日の荒川元暉先輩があまりに強く警策で打ったため警策が折れてしまったこと、あまりの眠気のために坐禅のままの姿勢で前のめりに倒れ床に顔を打ちつけた参加者がいたことである。

 

そして三日目の早朝、許されて私も当時の円覚寺管長の朝比奈宗源大老師に独参した。拝礼し厳しいお顔をしたおごそかな大老師とにらみ合い、腹の底から声を出して一二言怒鳴るように申し上げ、大老師に鈴を振られて辞去したのであるが、すがすがしい思い出である。

 

私達の会の参加者は荒川元暉、海老原遥、飯島一玄、深谷晋、岩谷久生 

古沢譲二、石原昭 筑間啓亘 藤岡学 古賀勲、坂本健の皆さんと私、佐藤元則の12名であった。

 

この雑誌を読むと、この3泊4日の接心の間、私達の会がこの円覚寺居士林をお借りしたということである。そして、その頃居士林で居住もしておられた

毛利居士がいろいろと指導や支援をして下さった。他大学の道友7名も一緒に坐ったが私達の接心に参加という形だったようである。

 

接心の最後に、朝比奈宗源大老師が私達のために提唱(講義)をして下さった。

また、日天掃除の後空いた時間に、東慶寺を訪ね井上禅定師のお話しをお聞きしたり、円覚寺黄梅院におられた辻雙明氏を訪ねてお話しをお聞きしたりした。

 

もう半世紀前のことである。

 

画像:円覚寺居士林 筆者撮影


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