磐六会で私の横に座っていたDMさんが私に言った。「○○のお寺に一緒に行ったことがありましたたね。」と。私は答えた。「それは○○ではなく、赤井のお寺ですよ。」そして思った。よくぞ覚えていてくれたものだ、と。
私が高校を卒業し、1年間の浪人生活を送ったのちに大学に入学したときには、磐城高校時代は3年間同じクラスだったのに、一言も言葉を交わしたことのなかったDMさんは東京のW大の学生であった。
5月にあった私の大学の大学祭に、私はDMさんに案内を申し出た。DMさんは受けてくれた。私は多少緊張気味に彼女を案内した。面白味のない私と一緒でDMさんは肩がこったのではなかろうか。講堂の中であった、学内の交響楽団や学内にいくつかあった合唱サークルの合唱も一緒に聞いた。
私が私の大学の在学中に大学祭に女性を案内したというのは後にも先にもこれだけであった。
私の大学2年の時だったろうか。夏休みにDMさんが、彼女の大学でのある授業で民俗学のレポートの宿題があるので、テーマに関係した取材方法で心当たりがあったら教えて欲しいという依頼があった。私は私の村の菩提寺に彼女を案内した。住職の和尚さんが土地の葬儀の方法を話して下さった。
このお寺は、当時磐城高校で保健を担当しておられたA先生のご実家であった。住職の和尚さんはA先生のご父君であった。
冗談好きのある先生があるときこのようなことを言って生徒を笑わせた。
「A先生はとても面倒見のよい方だ。保健でみんなの健康を担当してくれるし、万一の時にはその後まで面倒見てくれる。」
時々はA先生は、ご父君を手伝って仏事もやっておられたようであった。
先日の同窓会の時に、DMさんはこの時のことを覚えておられたのである。
高校3年の同じクラスのKR君もW大学に進学して、ときどき大学でDMさんに会うことがあるようだった。KR君に誘われて、KR君と一緒にDMさんと新劇を見に行ったこともあった。
(KR君とは浪人時代に1年間二人で寝食を共にした懐かしい友人である。いずれ、このブログで彼のことを書き綴りたいと思っている。)
つまり高校時代は全く言葉を交わす機会もなかった女性のクラスメートと、大学に入ってからは会う機会があったということである。
今は全て懐かしい遠い昔のことである。
DMさんとは、年賀状は毎年交換していたが、先日の磐六会で大学を卒業してから初めて会ったのである。ほとんど50年ぶりであった。 (つづく)
画像:筆者撮影
最新の画像[もっと見る]
- #875 成瀬宇平著 [免疫力を高める生き方」(1)(株式会社健学社刊) 7年前
- #874「あるクラス会」4 8年前
- #873「あるクラス会」3 8年前
- #872「看護介護の喜び」 8年前
- #871「不在からの帰還」 8年前
- #870 「かくも長き不在」2 8年前
- #868 「大船観音」 9年前
- #867 「THE BOOK OF AMERICA」 by Neal R. Peirs & Jerry Hagstrom 9年前
- #866 「富士山」 9年前
- #865 「森戸神社」 9年前