この懐かしき本たちよ!

まだ私の手元に残っている懐かしい本とそれにまつわるいろいろな思い出、その他、とりとめのない思いを書き綴りたい。

#829「中島貞夫監督の人生の贈りもの」(3)

2014年05月20日 | 映画、ドラマ

7回連載のこの記事の最終の7回目についている写真は、粋な女性と散歩をしている中島監督の画像である。監督はステッキを持っている。

聞き手の次のような質問で始まる。(以下朝日新聞の記事をかいつまんで引用させて頂く。)

ー映画監督ってすごく多忙そうですが、ご家族とは?

 娘と息子がいるけど、小さい頃の思い出はないなあ・・・・

ー奥様は、同じ千葉県東金市出身でしたね?

僕が貞夫で、女房が貞子。学生時代からからの知り合いで、芝居なんかも手伝ってくれた。入社2年目で結婚した。・・・・・・・・・・・・

 そして学生時代から一体のようになって中島監督を支えて来た恋女房だった貞子さんのことが語られる。最後はがんで亡くなる。しかし中島監督の手厚い介護も受け「ありがとう。」を繰り返しながら。(1997年に)

ーいま、支えあう女性がいらっしゃる?

・・・・・・撮影所の連中が泊まっていた宿を経営していた古くからの知り合い。家族ぐるみで付き合っていた女性で寿子といいます。3歳年下で、裏千家の茶道の正教授。女房の3回忌の後、「一緒になろうか」といったんだよ。

 周りに「うちのかみさん」て紹介して、かれこれ十数年。もう年だから入籍しないよ。自宅に彼女の部屋はあるけど生活習慣が違うから別々に暮らしている。・・・・・・・・

私はこの部分を今、ほとんど全部書き写しかけていた。同監督の話しぶりがうまいのか、聞き手になって文章をまとめている伊藤恵里菜さんとおっしゃる記者の方の腕の素晴らしさのせいか文章のどの部分を削ってもどこか説明として不満足になってしまう。

しかし、書き写すのはこの程度にして、この記事はまだ新聞で読んでない方には朝日新聞のオンラインにも掲載されているので、そちらで読んで頂こう。この写真も見て頂こう。

中島監督の貞子夫人は亡くなってもう17年経つのだという。ということは同監督は79歳というから、自分の還暦ちょっとで夫人を亡くしているのだ。さぞ残念だったことであろう。そのこともあって貞子夫人が出席できるように早めた息子さんの結婚式の両親の花束贈呈の時に、息子さんが泣き、自分も涙が出たと中島監督は述べている。涙が出たと言う程度ではなく、自分も心のなかで大泣きしたことであろう。

そして、貞子夫人が亡くなり3年忌の後に、それまで家族ぐるみで付き合っていたという「うちのかみさん」と周囲に言っている寿子さんに「一緒になろうか。」と言ったんだと中島監督は述べている。

そして、この記事「人生の贈り物」の最終回には、中島監督と寿子さんが大きく写った写真が出てている。

読者は貞子夫人の写真も第6回目の記事の中で見ることが出来る。就職し東京から東映の京都撮影所に出発する中島監督を見送りに来た大学の友人たちと一緒に撮った写真の中に中島監督に寄り添ってしっかりと写っている。

私が何が言いたいかというと、7回にわたったこの記事を読んで、私は中島監督の女性に対する細やかな配慮を感ずるのである。きっとそれはこの記事の担当記者である伊藤恵里菜氏にも負っているのであろうが。最後の回が中島監督の二人の夫人に触れ、寿子さんとのツーショットの写真で締めくくられているのは、なるほどと納得している。この記事の書き方についても、同監督の意向が十分反映されているのであろう。

男性は女性の支えが無ければ生きていけないようである。特に中島監督のような人にはそうであろう。

                                                                 (つづく)

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