![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/06/4576eb53014d583c0b06f1894b4ae320.png)
11月から12月にかけて、いろいろな行事があり、私は50年ほど前にもどったような妙な気持になっている。
昨日は恒例の福島県磐城高校を卒業して関東地区に住んでいる同級生の忘年会が上野であった。
会長の上川良一君と事務局長の早坂次男君の努力によって私達は毎年この忘年会を楽しむことができる。
みんなよく飲みよく話した。
私は、3年間同じクラスだった草野敬久君と、大学も一緒で就職も会社は違うが二人とも最初関西勤務からはじめた菅本瑛君と同じ席だったので、楽しく昔話をした。
草野敬久君は私のこのブログを時々読んでくれているようで、ここに出てくる女性とここに出て来る女性は同一人物か?などという面白い質問もしてくれた。彼は女子大の学長をしたことがあるが、この私への質問はそのこととは関係がないだろう。
私は大学時代に草野君の仙台の大学の寮に泊めてもらったことがある。私は大学生だったが、彼はすでに大学院生であった。
彼は理学博士であるが、すぐれた文学的な感覚を持っており、私とは話があう。彼は今、男性合唱団に入って本格的に歌っているようである。
菅本君は、最初大阪の本社勤務だった。1年目のある日曜日、京都の工場に勤務している私を訪ねて来てくれて2人だけで、
嵐山か広沢の池で2人でボートに乗ったが、意気があがらず、次には是非、それぞれ女友達を連れて会おうと冗談も交えて話したことがある。
次の時は、菅本君は会社の女子社員2人と一緒に京都に出て来たからと私を呼び出してくれて、私が慣れぬ京都案内をしたことがある。そのことをいうと、菅本君も覚えていて二人で笑った。
私の学年での木村敏夫君とともに二人のとびぬけた秀才のうちの一人の物理学者の江尻宏泰君は、この歳なのに、名誉教授をしている大阪大学で何かを一緒に実験をしている途中だということで、大阪から日帰りで出席して来ていた。というと彼は大阪に住んでいるように聞こえるが、そうではなく、彼の住居は湘南葉山の国際村にあり、仕事の便利さから、パシフィコ横浜の近くの高層マンションに普通は住んでいるようだし、外国にも仕事で始終行っているようだし、昔から努力家であり、いろいろと忙しい人である。しかも忙しい中でも必ず中学、高校の同窓会には出席しているようである。江尻宏泰君も理学博士である。
私達の学年には5人だけ女子生徒がいたのだが、残念ながら、東京での会にはこの元女子生徒が出席したことはないようである。3年前に郷里いわき市であった同窓会には2人の元女子生徒が出席していて懐かしかった。
高校時代にそのうちの一人の女子生徒を好きなのではないかとからかうと、色白の顔を赤らめるので、私達がおもしろがってはやしたてたことのある成瀬宇平君も顔を見せていた。成瀬宇平君は医学博士である。執筆活動にも忙しいようである。
私がいつもの通りにからかうと、実はその女子生徒を好きだったのは私もそうだったのではないかと逆襲して来た。人のせいにしてずるいというのである。
そういえばそうであると私も率直に認めるべきかもしれない。などと書き始めると墓穴を掘りそうなのでこの辺にしておこう。
同じ大学に進んだ富岡良信君も顔を見せていた。富岡君も最初は関西勤務で、京都で働いていた私を訪ねて来てくれたことがある。夏だったのか、私は彼と一緒に祇園の歌舞練場の屋上のビヤホールに行ったのを覚えている。このビヤホールは、本物の祇園の芸妓さんや舞妓さんがアテンドしてくれていて、たまたま顔見知りの芸妓さんがいて楽しかった覚えがある。
若いころのとりとめのない思い出である。
大井川武彦君も元気な顔を見せていた。彼は私が磐城高校に入学した時のクラスの委員長。柔道部員。信望が厚い。顔の色つやもよくますます元気な様子である。
神奈川SGGクラブで一緒の渡辺武彦君も来ていた。神奈川SGGクラブで標準語で話している私も、渡辺君と話すときはつい安心して東北弁で話す。
赤井一中で一緒だった永山薫君も来ていた。彼は赤井一中の運動部で野球部、篭球部、排球部、陸上部すべての主将であった。
仲良しだった田巻賢次郎君が亡くなったのは残念である。赤井一中で一緒だった瀬戸智明君も昨年亡くなった。
ご冥福をお祈りしたい。
会の最後には例によって、全員で校歌斉唱である。
昨年は欠席していたが体調が回復したようで元気で出席した応援団長の木村暢夫君が音頭をとる。
1. 峯は秀ず赤井嶽
水は清し 夏井川
ここ磐陽の学び舎に
ああ楽し我らともがら
2.まがねや溶けん夏の日も
はだえや裂けん冬の日も
自覚のまなこ生くるとき
努め励みて吾等たゆまじ
「吾等ともがら」は再会を約して散会した。
画像:磐城高校 校章