1837年薩摩国 西田村の鹿児島藩士の四男として生まれる。
そして、この子は親類の永山喜八郎の養子となる・・・。
武士の武四郎は戊辰戦争に従軍し、明治維新後の明治4年に陸軍大尉・2番大隊付に任命される。
そして、明治5年から蝦夷地の開拓使に移り、北海道を開拓する屯田兵の大隊長として指揮をとるも、故郷 九州で士族の乱が起こり命令で鎮圧に従軍することになる。
戦から帰還して屯田兵の大佐となり、1年間の欧米視察・出張をへて明治21年若くして北海道長官に就任する。
2代目である。
◇
永山氏は北海道内陸部の開発に夢をはせ上川のこの地に京都・東京いや「北京」を創る構想を持って政府に働きかけていた。
ところが反対も出始めており、そんな中、上川(旭川)に離宮を設ける案に対しては、明治天皇も裁可し、宮内庁を経て閣議決定され、この地は御料地に指定される !
話題は広まり次々と永山村・旭村・神居村が開村し、北海道中心部への入植者は一気に増加してきたが、この「北京」都市計画建設に反対する意見が札幌・小樽から上がりさらに、日清戦争が始まり計画は頓挫してしまった。
月日が経ちそれからも永山氏は出世し、最後には陸軍中将となる。
1900年まで旭川市等で勤め、やがて定年となり退役するに至る。
1903年11月から貴族勅撰議員を務めるが、1904年に、議会出席のため上京する途中で倒れ、5月27日に死去しました。
◇
ロシアから北海道を守り生涯防人を指揮し、開拓した功績は大きく親しい者たちに自分が死んだら「我が体躯は北海道に埋めよ。
必ずや彼の地をロシアから守らん」と述べていた。
その遺言により、ご遺体は札幌市豊平墓地に葬られた。のちには近代的な里塚霊園に改葬される。
現役時代は屯田兵を掌握し軍部内で大きな勢力だったが、本人には政治的野心はなく、終生北海道を案じ、その身を捧げた武人でした。
そして、この子は親類の永山喜八郎の養子となる・・・。
武士の武四郎は戊辰戦争に従軍し、明治維新後の明治4年に陸軍大尉・2番大隊付に任命される。
そして、明治5年から蝦夷地の開拓使に移り、北海道を開拓する屯田兵の大隊長として指揮をとるも、故郷 九州で士族の乱が起こり命令で鎮圧に従軍することになる。
戦から帰還して屯田兵の大佐となり、1年間の欧米視察・出張をへて明治21年若くして北海道長官に就任する。
2代目である。
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永山氏は北海道内陸部の開発に夢をはせ上川のこの地に京都・東京いや「北京」を創る構想を持って政府に働きかけていた。
ところが反対も出始めており、そんな中、上川(旭川)に離宮を設ける案に対しては、明治天皇も裁可し、宮内庁を経て閣議決定され、この地は御料地に指定される !
話題は広まり次々と永山村・旭村・神居村が開村し、北海道中心部への入植者は一気に増加してきたが、この「北京」都市計画建設に反対する意見が札幌・小樽から上がりさらに、日清戦争が始まり計画は頓挫してしまった。
月日が経ちそれからも永山氏は出世し、最後には陸軍中将となる。
1900年まで旭川市等で勤め、やがて定年となり退役するに至る。
1903年11月から貴族勅撰議員を務めるが、1904年に、議会出席のため上京する途中で倒れ、5月27日に死去しました。
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ロシアから北海道を守り生涯防人を指揮し、開拓した功績は大きく親しい者たちに自分が死んだら「我が体躯は北海道に埋めよ。
必ずや彼の地をロシアから守らん」と述べていた。
その遺言により、ご遺体は札幌市豊平墓地に葬られた。のちには近代的な里塚霊園に改葬される。
現役時代は屯田兵を掌握し軍部内で大きな勢力だったが、本人には政治的野心はなく、終生北海道を案じ、その身を捧げた武人でした。
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